国内ひとり西遊記 ①西へ

 前回谷川に行った。これはすべて石鎚の前哨戦である。石鎚山愛媛県西条市にある最高標高1982mの山である。古くから修験道といった山岳信仰が今なお息づく歴史ある名山であり、日本百名山にも選ばれている。頂上は弥山(1974m)だが、最高峰は弥山の先のナイフリッジを越えた天狗岳(1982m)である。そして、この天狗岳は、実は西日本最高峰だったりする。そりゃ、西日本生まれの私が是非とも行きたい、と思うようになるのは必然であろう。本当は、二年の夏くらいに帰省するときに、寄り道がてら登るか、くらいに思っていたのだが。それが11月くらいに俄かに自分の中で冬山に行く機運が高まり、結局12月に行くことにした。行くまでの経緯、ワンゲル連中との話については、前作 年末の谷川岳①②の記事あたりを参照していただきたい。さて、本作では、石鎚山へ向かった、2019年12月27日から2020年元旦までの六日に渡る一人旅の軌跡を記していきたい。

f:id:mountain99:20200730201942j:plain

鷲羽山山頂より

 

 

 12月27日。正午。私は大学の部室にいた。冬山の件で先輩に許可を貰い、部の備品のヘルメットや応急セットを拝借することにした。ザックにそれらをパッキングしていよいよか、と胸を高鳴らせていた。その高鳴りを抑えるために、部室に置いてある書き込みノートを手に取り、ボールペンを握った。

部室にはノートが置いてあって、バックナンバーは143に及ぶ。創部以来(?)延々と書き込まれてきたのだろう。その143のノートもあと1、2ページしかない。ここ数年はほぼ存在すら忘れられていたが(No.143の最初の方を書いた代がアニヲタの巣窟で私の一個上の新歓の時に新入生が発見してドン引きし、入部を断念したらしく、私の代の新歓の時にはそのノートを隠蔽していた、と主将談)、七月に初カキコして以来、ほぼ私のポエム帳かよと言いたくなるくらい書き込みまくった。多分私の書き込みだけでこの時点であっても6ページは浪費したのは間違いない。

当時は本気で石鎚で死ぬかもとか、メンヘラまがいのことを考えていたから、文章は痛いことこの上なかった。見返したくもない。この日もまた、そういう読むに堪えない駄文をひたすら書き連ねた上、コース等も書いておくことにした。仮に事故った場合でもスムーズに検証ができるように。あまり意味があるとは思えないが、それでも当時はこうするより仕方なかったように思う。

東海道線の列車の時刻を考えると、一時半には出たい。それまでこの部室で何ができるか。この部室に対し思い残すことはないか、と考えると、「岳」が読みたかった。島崎三歩でおなじみの山岳救助漫画である。この「岳」を読みつぶすために、10月から今日に至るまでどれくらいの時間部室にこもり、読みまくったことだろうか。この「岳」の舞台が夏合宿で行った槍穂高周辺というのもあり、ひたすらにハマった。

勿論三歩も好きなのだが、推しは阿久津君である。5巻あたりから登場して、救助人としは二人前ながらも次第に慣れていき、生涯の伴侶を得て父として救助に携わっていく男である。そんなに器用な人間ではないにせよ、三歩たちに助けられながら成長していく姿をみて、かくありたいと願うのも当然である。まあ所詮は漫画だし、過剰にアオハルな描写が為されている面は否定できないけれども。それでも、一番好きなシーンは、後に妻となるスズちゃんに告白するシーンである。阿久津は告白しようかチキって三歩に相談する、その時三歩が言ったのは、取り敢えず直登、ダメなら下山。

項をめくるのをやめ、改めて良い言葉だな、と思った。やはり、最後に読むべきものとしては最も相応しい本だった。

 

 横浜駅に出て、アクティーに乗る。天気は素晴らしく、湘南台の遠く、丹沢の峰々が雄大だった。しかし、冠雪らしい白は見いだせず、暖冬を思った。国府津で降り、駅前の湘南の青を目に焼き付けた後は、御殿場線に乗った。御殿場の手前あたりから右手に見える富士山。その裾野の大きさに息を飲んだ。東海道沿いを走っているだけでは絶対に分からないあの雄大さ。とにかく近い、そしてデカい。こんなに間近を鉄道が走っているのかと、衝撃的だった。ちょうど黄昏時であって、山の向こうに日が沈んでいく。その高嶺も黄金色の光を浴びて、どこか異世界にいるような神秘さがあった。この季節に富士山に登ることは決してないだろうが、いつか部で登りたいと思った。今年の八月末に部で登ろうとしたが、暴風雨にぶつかって、計画倒れになっていたのだ。

 

沼津に出ると、東海道本線名物のロングシート地獄である。展望を楽しむならば最悪な列車である。昔は私もクソだと思っていたが、実際に乗ってみると考えが変わるものだ。まず、着席確率が上がるし、ザックというくそデカ荷物を置くとなるとロングシートの方が都合が良い。また、JR東日本みたいに座席が固いということもなく、座り心地は悪くはない。旧型車ならトイレはないが、最近は旧型車とトイレ付きの新型車が併結されることも多いようで、案外心配の必要はない。旧型だけの場合は運が悪いと割り切るだけだ。

しかし、JR東海も多少文句のつけどころはある。というか、首都圏の駅に慣れていると、大分困る点がある。それは考えてみれば当たり前なのだが、駅構内のコンビニの少なさだ。いや、地元福岡でも駅構内に売店がある駅なんぞ相当限られるわけだが、首都圏の当たり前に浸かっていると痛い目に合う。

そういえば沼津では乗り換え時間が短く、売店に行く暇はなった。静岡は二、三分で発車だし、次は浜松だ。しかし、静岡あたりで限界を感じていた私は、浜松まで待ちきれず、掛川豊橋行に乗り換えることにした。要はこの豊橋行に掛川で乗り換えるか、浜松で乗り換えるか、だけの話である。しかし、掛川駅の在来線改札口付近にすらコンビニはなかった。探すと、駅から一分くらいのところにローソンがあった。店内はしかし、私の同業者たる18きっぱーらしきが行列をなしており、乗り換え時間の10分には間に合わなさそうだ。18きっぱーにとって、乗り遅れは致命傷だ。ここは仕方なく撤退せざるを得なかった。腹はコーラを一気飲みしてごまかした。結局、食事は豊橋きしめんまでお預けとなった。

 

f:id:mountain99:20200730201924j:plain

豊橋駅きしめん

                                                                                          

その後、三河地区の強風とかで20分くらい遅れて米原に着いた。野洲西明石行新快速最終に乗り換え、零時過ぎに新大阪に着いた。今度は各停で折り返し、吹田に着いた。

 吹田には、関大の旧友Rがいた。中学からの仲だ。彼はバイトで吹田駅周辺で飲食のバイトをやってて、一時上がりということで、彼を駅前で待ち続けた。こいつには夏にも会っていて、泊まらせてもらった後、翌日は二人で甲子園の準決を見に行った。それ以来だ。

 一時になって、奴が来た。こいつにはゲジ眉坊主がよく似合っていたのだが、今は髪を茶色に染め眉を剃っている。それでも生まれ持った九州男児のイモっぽさは抜けきれず、いかにも田舎から来た大学生デビュー感が否めないため、やっぱ似合わねえなと爆笑する。こうなるとお互いに罵倒合戦だ。まあ、12歳の友はもう持てないとは言ったもので、安心して馬鹿にできるし、久々に痛烈に口撃される。これはこれで良い。

 R曰く、もう一人同郷人Yがもう来ているらしい。Yも中学の同級生で、彼とは小学からの仲だ。というか、小学で一番遊んだ奴だ。Rはどちらかというと学友に近いが、Yは趣味友だ。小学時代からチャリ旅と称してママチャリで地元周辺を駆け回った。高校でも学校は違えどチャリ旅は続け、有田や唐津に行ったこともあった。現在、彼もまた関西の私大に行ってる。

当初の計画では、明日は少し早く出て加古川線とか乗りつぶし事業を進めようと思っていたが、こいつらがいるならそれも惜しい。よし、飲むか!ってことで氷結とかの安酒を仕入れ、R宅に着いた。Yがクソ遅いとぼやいた。もう二時半だった。

久々ということで、ポテチをつまみつつ氷結を酌み交わした。谷川帰りのグリーン車一番搾りを飲んで以来の酒だった。ほんとジュースみたいな甘さだったが、このところあまり飲んでないのですぐに酔いが来た。酔いながら一通り今回の旅の計画を語り、ピッケルの使い方を(本当はよく分かってないのに)実演して粋がる。彼らはたいそう喜んでいた。その後は、DT仲間同士、いかに女性との接点がないか、とか、中学のあいつは彼女出来てひとかたならぬ関係になったとか、極めて不毛な会話に収斂する。そんなこんなで眠くなり、シュラフを敷いて寝た。

 

 

九時半に目が覚めた。取り敢えず大阪発13時の新快速に乗ろうと決め、それまで取り留めない話に花を咲かせた。11時になってRが、お前との最後の晩餐だな、死ぬ前くらい旨いもん食おうぜ、と言って来た。そうだな、と、彼の行きつけの焼肉の店に行くことになった。しかし開いてなかった。仕方なく、関大前駅の王将に入り、たらふく食った。会計は持ってやると二人が言ってくれたのでその厚意にあずかった。気が付けば早いもので、関大前駅まで来た。

お前に何かあったら葬式くらいは出てやっても良いぜ、まあ成人式来いよ。遺影だけ参加とか勘弁しろよな。ま、頑張れ。そんじゃな。

ああ、と生返事して、彼らの顔を軽く見た後、ホームへの階段を駆け上がった。

 

 

阪急で梅田に出た後は新快速で姫路へ。Aシートだったから余裕だったが、相生行戦線、岡山行戦線では案の定座れなかった。この時期この線区は十中八九18きっぱーばかりで、地元民にすればさぞ迷惑なことだろう。岡山に着くと、マリンライナーに乗り換えた。普通ならそのまま高松だろうが、児島で降りた。

 

 いちいち児島で降りたのは、鷲羽山に行ってみたかったからである。北アルプス百名山とはまた違う。瀬戸大橋の岡山側の先端にある低山だ。昔、四国方面の夜行急行に鷲羽ってのがあったらしい。それがなければ鷲羽山を意識することも認知することもなかっただろうし、よもや行ってみようなどとは思うこともないだろう。今回の目標たる石鎚だって、特急いしづち号(高松~松山)の存在がなければ意識することもなかっただろう。前回の谷川だって上越新幹線谷川号の存在がデカい。要は、優等列車の名前にもなるような山とはどんなものであるか、と興味がわき、その山について調べて、こりゃ良い山だ、行きてえ、という風になって旅の欲が掻き立てられ、行けるとなれば行く。私の思考回路はそんなものだ。

 まあこの鷲羽山という山は、瀬戸の景色を楽しむにはうってつけだ。近くには鷲羽山ハイランドという遊園地があって、中々の絶景が遊びながらにして楽しめるらしい。今回は行かなかったが、鷲羽山近くの下津井集落には、前述の鷲羽山ハイランドや古城があるらしい。いずれにせよ、児島駅からはどう少なく見積もっても3~4㎞ほど距離があるため、本来なら車やタクシーあるいは(あるか知らんが)バスを使うのが普通だろう。

 しかし、その辺の下調べを放棄していた自分は、取り敢えず歩きゃ着くでしょ的なノリでただただ歩いた。取り敢えず海沿いの道をひたすら歩いた。しばらくすると競艇場があって、吉田拓郎の「落陽」で言うところのろくでなしの男たちが、児島駅までのバスに群がっていた。取り敢えず便乗して―!、と切に思った。今まで真面目腐って歩いてきたのが馬鹿みたいじゃねえか。

 帰り道はそれを使ったのだが、実はこの辺には下津井電鉄というローカル私鉄が存在していて、その廃線跡が遊歩道になっている。この遊歩道を通れば、最短経路で鷲羽山の山頂に行ける。しかし、下津井電鉄くらいは知っていても、その廃線跡がどこにあるかなど知る由もなく、ひたすら海沿いの集落をさまよい、適当に斜面のブロックを這い上がった。これもある種バリエーションの一種かと苦笑しつつ、斜面をのし上がって廃線跡の遊歩道にたどり着いた。

 

f:id:mountain99:20200730202351j:plain

しばらくして高速を越えた先に茶屋みたいなのがあり、それを左方向に進むと登山口がある。と言ってもしばらくコンクリで舗装されているし、距離も高が知れている。道すがら、ところどころちょっとした大きさの岩が鎮座していて、看板を見ると古墳であるらしい。景色もいいし、それなりの権力者だったのだろうか。

 そんな古代の情趣をじっくり堪能し考察するには余りにも短すぎた。正確な記憶も記録もないけど、五時ごろ、山頂に着いた。3時50分くらいに駅を出たので、足掛け約1時間。まあ疲れもあるんで、読者の皆様はぜひともタクシー等を使って、周辺も観光して経済を回していただきたい。それはさておき、山頂には先客がいた。バツが悪いことにカップルだった。自撮りして顔をこう密着させて、いかにも幸せそうな写真を撮っていらした。相手の見た目が明白にDQN風でなければ、こういう時は邪魔はせずとも、黙って勝手に自分のペースで観光を楽しむのが正解である。黄昏時の瀬戸大橋を眺めつつ、綺麗じゃぁ、とボソッとつぶやいてみたり、相手に気兼ねすることなくマイペースに楽しめば良い。ほどなくして、彼らは下山した。どうせ、なにあの登山ガチ勢みたいなのは、邪魔しやがって、と愚痴られていることだろう。彼らがいなくなったのを見て、10分ほどではあるが、瀬戸大橋と瀬戸の向こうに沈んでいく夕陽を静かに眺めた。

f:id:mountain99:20200730201942j:plain

 

 

 児島に戻ると、四国にいくかと思いきや、茶屋町に引き返した。そして、宇野行に乗り換えた。この旅のもう一つの目的、乗りつぶし事業のためだ。
 古くは宮脇俊三の「時刻表2万キロ」が有名だが、日本全国の鉄道路線(原則JR、私鉄等を含めるかは人によって分かれるところ)を全線乗りつぶすことを生きがいにしている連中は、一定数存在する。私もその一人だ。人生何年続くか知ったものではないが、特にこういう地味ローカル線は案外やり逃す。超ローカル線とは異なり、行きたいという欲がそうは湧かないからだ。年を取れば普通列車ばかりの旅も堪えるだろうし、そもそも就職してもし結婚することになれば、そんな暇も取れないだろう。だから、学生時代に行けるところはバンバン行きたい、というわけだ。
 終点の宇野に着いた。宇野という街は今でこそ死ぬほど地味な街だが、瀬戸大橋が完成する前は、ここ宇野が本州と四国をつなぐ一大拠点であった。前述の急行鷲羽や特急瀬戸、要は東京発の夜行列車はここ宇野が終点で、乗客たちは宇高連絡船に乗り換えて高松に向かう。そんな光景があった。宇高連絡船なきあとも地元のフェリー会社がフェリーを運航し続けていたが、この年の12月半ば、要はこの日の二週間前くらいを以て運行休止となってしまった。一度は乗ってみたかった。今では、広い波止場がかつての栄華を思い起こすだけだ。宇野駅自体も構内は大分縮小され、ただの小駅に成り下がった。

f:id:mountain99:20200730201854j:plain

宇野駅舎。瀬戸内国際芸術祭の舞台でもあり、それに合わせ外装もお洒落になった。


 それにしても、宇野という響きは際立って良いものだと感じるのは私だけだろうか。鉄ヲタあるあるで、頭の中で仮想世界を創造していた少年時代だったが、宇野はその仮想世界の首都名であった。それだけ、私は宇野という響きが好きなのかもしれない。宇野という文字を宇と野に分解したとき、「宇」という文字について注視してみると、気宇壮大とか宇宙といった単語から連想される通り、どこか果てしない広がりというか奥行きを感じずにはいられない。実際「宇」には、屋根、天、心、といった意味がある。だとすれば、宇野という土地は、“天の地”と訳すことが出来ようか。勿論地名の由来には諸説あるだろうし、断定的なことは何も言えないが、地名が”天の地“というのはなかなか素晴らしいものではなかろうか。宇野が瀬戸内沿いというのもあり、若いころの小柳ルミ子が歌う”瀬戸の花嫁“の世界観がよく調和する。瀬戸の花嫁のイメージも相まって、どこか宇野という街には、天女の存在を思わせるような神秘性を感じる。
 と、ここまで大分観想的な妄想に陥ってしまった。実際、どこか宇野という街は名前だけで行ってみたい、と思っていたし、行けてよかったと思うが、唯一後悔しているのは、鷲羽山の夕陽を取って、宇野に着いたのが真夜中だった点だ。宇野は瀬戸内の芸術祭の舞台でもあるし、またいつか機会があれば、日中に再訪しよう。

 宇野駅近くにスーパーがあったので、これを幸いにと買い出しをする。朝飯、登山での食料を中心に買い足した。名残惜しみながら宇野を後にし、茶屋町に戻ってマリンライナーに乗った。10分ほどたって瀬戸大橋を渡った。景色を楽しむには暗闇が過ぎるが、久々に本州を離れて四国に渡るのだと思うと、感慨深いものがあった。


 
 23時43分。伊予西条に着いた。石鎚登山の玄関口である。明日の七時半過ぎに麓へのバスが出るので、それまでは待ちだ。今日はこれから寝場所を確保しなければならない。だが、宿探しとはまた違う。やはりケチなので、そこらへんで野宿すれば良いと思っていた。前も書いたが、本当はこんな貧乏ったらしいことをするより宿に泊まって経済を動かした方が、経済的にも治安的にも正解だろう。しかし、当時の自分には、そんな発想も財布の余裕もなかった。むしろ、好んで野宿をしていた。だいたい四国でしかも海抜100mもないような平地で野宿したって死ぬことはない。人徳的には完全に間違っているが、先週は谷川の麓で死ななかったのだから、四国の平地で野宿など屁とも思っていなかった。
 誰得情報ではあるが、一応野宿する場合、どうしても押さえなければならない点がある。それは屋根である。人が来ない所を選ぶのは言うまでもなく重要だが、それと同じくらい重要である。10月にとある文化会館の軒先で野宿したとき、2時くらいに突如土砂降りがきた。幸い濡れることはなかったが、ここで雨にひっかぶれば体温低下による体調不良だけでなく、装備が雨に濡れて重くなったり、最悪 out of use といった惨劇も十分ありえる。10月のこの件で幸運だったのは、マットとかを敷いていた軒先の下の部分はこの文化会館庁舎の外廊下の部分だったようで、高床になっていた。だから、下方に流れていった雨水に濡れるという事故もなかった。(なおその文化会館庁舎は特にフェンスとかで締め切られた様子はなく、少なくとも庁舎の玄関前の軒先までは、誰でも平気で立ち寄れるようなところだった。不法侵入と言われればそれまでだが、少なくとも、塀とかをよじ登って入ったわけではない)
 この経験を踏まえると、屋根付きで少し高いところ、にこだわりたい。特に屋根付きには。すると、街中でやるとすれば、場所は自ずと限られる。民家や商店の軒先は色々問題がある。場所によっては駅もアリだが、伊予西条はダメだ。とすると、公園一択ということになる。
 とりあえず、駅近の公園を探して歩いてみる。すると、西条市民公園というのがあった。行ってみると、割と大きな公園だった。南側に広いグランド、北側には家族連れにうってつけそうな遊具のスペース、そして、真ん中辺に立派なトイレと沢山の木々と原っぱ。トイレが中々しっかりしているんで、ここで良いんじゃない、と思った。当初はトイレの軒先でも良くね、と思ったが、奥の方を見ると、3mほど盛り上がった丘みたいなのがあって、しかも東屋風になっている。要は屋根付きかつ少し高いところであった。嬉しいのは、トイレとは違って歩道からも離れているため、通行人とバッタリ会うリスクも小さい。例えば、ヤンキーが公園に乗り込んだって、わざわざこんな東屋に来ることもないだろう。
 こんなにアッサリ希望をすべて満たす場所が見つかるなんて。まさに天祐というより外ない。疲れたな、とザックを下ろし、マットとシュラフを敷いてすぐに横になった。と言っても、列車で寝たせいかすぐには寝付けず、ぼやっと空を見た。てんきとくらすによれば、明日は曇り模様で、ガスの中の登山になりそうだ。それでも、空にはまだ星がいくつも見えた。まだ、晴れる望みはありそうだ。