国内ひとり西遊記 ⑤あけぼの

 

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潮岬で見た初日の出

 備後落合からは、一日三往復の区間に入る。(備後落合~東城間)昔ならこういう区間に乗れるだけ興奮していたのだが、今は疲労の方が勝る。冬至に近い時期の西日本は日の出がとても遅く、七時になってやうやう明るくなりゆく感じだから、眠気に拍車がかかる。せめて、駅舎だけは目に焼き付けようと目をこする。それでも、一級品秘境駅の内名を見逃したのは残念だった。

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ん?

 さて、この列車の終点は新見だが、芸備線の終点ではない。新見の二つ手前に備中神代という駅があり、ここから芸備線が分岐している。新見~備中神代間は伯備線という路線を運航しているのだ。その備中神代と新見の間に布原という駅がある。この布原で降りた。

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布原駅。旧仮乗降場にありがちな無駄のない簡素なホーム。

 この布原という駅、時刻表を一瞥しただけで中々癖のある駅だと分かる。伯備線の駅なのに、伯備線の列車が一本も停車せず、芸備線直通の列車しか停まらないのだ。そのわけは、国土地理院の地形図を見れば一発で分かる。完全に主要道から外れている集落だからだ。伯備線と並走している国道180号線も、新見から備中神代間は完全に離れたところを走っているし、この区間伯備線と並走している岡山県道8号線も駅から数十メートル高い丘の上を走っており、この丘を100mほど下って小川を下ったところに、布原集落、そして布原駅はあるのだ。もともと布原駅は信号所として成立し、住民の請願を受けて仮乗降所として旅客扱いを開始し、後に正式に駅に昇格したという歴史を持つ。

 しかし、元々ほとんど住民がいない陸の孤島というのもあり、わざわざ伯備線の列車を止める必要もないと判断されたのか、芸備線の列車しか停まらない。ホーム長も一両分と短く、待合室などあるはずもない。巷で言われるところの秘境駅だ。秘境駅ランキング自体もそこそこ高く(30位)、中々噛み応えのある駅だった。

 一通りの観察をしたのち、新見駅まで歩き始めた。駅前には結構しっかりした住宅があって、これが秘境駅らしさをなくしているという見方もある。もっとも、この住宅から人がいなくなれば、間違いなく廃駅の方向に傾くだろう。八号線への道を歩いていると、車が坂を下ってきていた。軽く会釈して道を譲ったが、車は特に減速することなくそのまま下りていった。多分訪問者もまあまあいる駅なので、一々反応するのが面倒くさいというところだろう。

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新見駅までの散歩道の途中、県道八号線からの分岐。右が八号線で備中神代方面。これを左に行けば布原駅だが、この先に駅がありますと言って信じる人がどれくらいいるだろうか。

中々ブッシュが酷くて、駅を眺めるのは次第に難しくなる。舗装されているとは言え、普通に山登りをしているような感覚だった。駅間距離3.2㎞に騙されてはいけない。中学時代の計画は、純粋に営業キロだけを参考にして駅間歩きの計算をしていたから、昔なら普通に計画が崩壊していたのだろうと思って苦笑する。でも、山歩き趣味のきっかけは、間違いなく秘境駅探索に始まるような気がする。秘境駅に効率よく回ろうとすると、徒歩が必要になってくるし、山道に近いような道も多く、それで歩くことへの耐性がついたような気がする。繋がってんだなあと、少ししみじみと感じた。

新見で軽く買い出しをすると、姫新線のワンマンカーに乗った。車窓は単調だったが、駅舎に木造駅舎が多く、非常に興味をそそられる。津山で乗り換え、同じように思えた景色を見つめていたら佐用だった。小さな郵便局に年賀状を数枚出して、スーパーはくとに乗った。智頭急行はまさに高規格路線で、気動車であることを忘れる快さだ。もう少し携帯の充電の時間が欲しかったと思いながら、鄙びた農村を見つめた。上郡からの山陽本線は、案の定18きっぱーという名の同業者が多くいて、地獄絵図だった。姫路駅での椅子取り合戦も中々熾烈であった。ドアの開く向きが右か左か。これをいかに早く知り、如何にそのドア付近に立つことが重要か。高校時代の西鉄での通学で、嫌というほど思い知らされた経験の蓄積がここでは効いた。

大阪に着いた。軽くおにぎりを買って関空・紀州路快速に乗り込んだ。阪和線は思えば8年ぶりだ。かつて叔母が岸和田や貝塚で教師をしていたのだが、8年前に癌で亡くなった。その葬式以来だった。

彼女が存命の頃、母が年1回は叔母の家に連れてってくれた。小学校低学年までは当然新幹線だったが、6年生になったとき、18切符で行きたいと強くせがみ、阪九フェリーならと渋っていた母を説得させ、弟と二人で山陽本線を乗り継ぎながら岸和田まで行った。かくして私は18きっぱーになった。久々に来てみて、変わったところはたくさんある。せまっ苦しかった東岸和田駅は高架化されて見違えるほど整った駅舎になった。羽衣線103系や381型特急はもういなかった。それでも、相変わらず接近メロディはあまり変わっていないし、街並みも見ていて懐かしい。金がないのと外泊許可が出ないのもあって、ここに来るまで8年もかかってしまった。それでも、少年時代の思い出が詰まった車窓を眺められて良かった。思い出を回収するために再訪するのも、旅の目的として良いと思う。

和歌山に着いて、最後の年賀状を出すと、御坊行に乗った。今日は串本まで行こうと思っていた。時間が少し余っているので、和歌山で旨い飯でも食おうかと思っていたが、今日は大晦日、新年を前にさっぱりして臨みたいと思い、駅近の温泉を探したところ、御坊が良かった。というわけで、御坊に向かい、駅から20分くらいのところにあったスーパー銭湯に入った。

湯船につかってふうっと息をつき、これまであまり考えてこなかったが、旅先では温泉もちょくちょく入れたほうがいいなと思った。露天風呂のテレビではガキ使をやっていて、数カ月ぶりに見るバラエティーに思わず声を上げて爆笑してしまった。サウナや岩盤浴にも手を出して仕上げた。御坊から紀伊田辺行の列車に乗ると、石鎚の前に寄った宇野のスーパーで買った梅酒を取り出し、ウィルキンソン炭酸で割って晩酌とした。風呂上がりの列車で一人チョビチョビ飲む酒は旨い。そして、いい具合にウトウトできる。客が少ないクロスシートの車内だからこそ為せる業である。

紀伊田辺から串本行の最終に乗って串本に着いたのは23時半過ぎだった。ラジオをつけると、蛍の光、そしてゆく年くる年であった。どん兵衛の鴨そばに御坊のスーパーで買った海老天を乗せて年越しそばとしながら、駅前のバス停のベンチに佇んでいた。ラジオの中継は北アルプスのある山小屋だった。燕山荘だった気がする。私も冬山には行ったとはいえ、この時期に標高3000m近いところに行くなんてご苦労なことだな、と思った。まさか俺が冬の北アルプスに行こうとはよもや思わないだろうと、当時は思っていた。

 

時報が鳴った。2020年だ。どんな1年になるんだろうか。東京五輪のボランティアで忙しいのだろう、山からは離れるんだろうな、と漠然と感じていた。先輩は劔に行くと言ってたけども、俺は北岳間ノ岳をリベンジしたいなあと思っていた。そして後輩君ができるんだろうけども、多少は慕ってもらえたら良いなくらいに思った。この妄想が、すべて外れることになることは、まったく想像もつかなかったのだが。

さて、今更だが、なぜ串本に来たか。それは日本地図が頭に埋まっている人間なら分かると思うが、串本は本州最南端の潮岬を擁する町だ。だから、本州で一番南で初日の出を拝みたかった。それだけである。

しかし、石鎚の準備に気を取られていて、潮岬について高をくくっていた。駅近だと思っていたが、実は駅から8㎞離れていた。当然バスもない。歩くしかなかった。しかも西岸側から行くのが最適解なのに、東岸側から行ってしまい、余計に歩く羽目になってしまった。ザックの荷物は15kgくらいあるがデポするわけにいかないし、登山靴なので舗装路を歩くのは余計にきつい。いずれにしてもこうなるのは分かっていたが、きつい。道すがらの自販機でコーラを買って一息ついて、再び歩き始めた。

 それにしても空が綺麗だった。夏に梓川上流の横尾で見たミルキーウェイに匹敵する美しさだった。高所でなくても、亜熱帯地域でもこんなに美しくはっきり見えるものか、と感動した。集落を抜けると完全な無人地帯で、道路の街灯の間隔も長くなる。備後落合での経験もあるから、ヘッドランプはつけない。下の方から波打つ音が聞こえ、遠くに橙色の光が見えたかと思うと、漁船だった。ガタガタとエンジンを鳴らしつつ、汽笛を響かせた。車も10分に一回くらいのペースでしかすれ違わない。静謐な夜であった。

 改めて星を眺めた。何がどれとかは全く分からないのだが、ただただ美しかった。よく目を凝らすと流星が見えた。少し視線をずらすと、断続的に流れ星が流れていると分かった。こんなに簡単に流星が見られるのがとても嬉しかった。何となく子供心が蘇った。願い事が叶いそうな気がした。空を見つめながら流星を待ち構え、ある女性の苗字を三回唱えた。多分間に合ったと思う。これで万事良しと思った。

 

 潮岬の公園に着いたのは2時半だった。思った以上に車があって、人だかりができていた。流石に疲れてしまったので、トイレ脇のベンチに腰掛けて2時間ほど眠りに落ちた。起き上がると、さらに人が増えていた。寒すぎて、思わず冬山用のアウターを上下で着た。京阪神地区からわざわざ見に来る人も多いのだろうか、五時の時点で最前列は完全埋まっていた。やはり初日の出というのは、静かに楽しむのが難しいらしい。

六時を過ぎて、黒い闇の地平部分が帯状に段々青くなっていく。人々の様子も段々せわしなくなってくる。六時半を過ぎるとその帯は赤みを帯びてくる。いよいよ、人々がソワソワし始め、そこにいる人たち全てが今か今かと待ち構える雰囲気になる。その赤も次第に段々濃い赤となっていき、やがて黄金色の輝きを放ちだす。ここまで来るともうカウントダウンも始まってくる。

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7:04AM 朝日が水平線から光の矢を放つ

7時04分だった。ついに大海原の向こうに、黄金色の光が姿を現した。2020の夜明だった。初日の出を見に行ったのは高2の皿倉山以来二度目だが、それとは比べ物にならないほど神秘的だった。天気だけの問題ではない。今回の夜明は、ただただ視界の問題にとどまらないような気がした。2020という年が、私の人生の本当の始まりのように思えた。だから、ただただ黙って見つめてしまった。

串本駅まではバスがあるそうなので、安心してそれに乗ることにした。暇潰しに、岬近くの絶壁の岩場で遊んだ。石鎚と違って視界がクリアな分、事故ったときの結果がすぐにわかってしまうのが怖かったが、楽しかった。あまり部活としてはやってこなかったけど、海沿いの岩場も良いものだ。こういうのに気付けるというのも、一人旅の醍醐味だと思う。

 

 

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海が蒼い!

串本に戻ると、紀勢線の列車に揺られて車窓を楽しんだ。昨日は夜で全く見えなかったが、晴天の太平洋は気持ちが良すぎる。昔やっていた全国鉄道百線の旅という番組の紀勢本線版のエンディング曲が Have  You Never Been Mellow だったが、それが本当に似つかわしい海景色だった。(写真を撮れば良かった…)福岡の玄界灘にはない明るさと広さだった。まさに大らかな海だった。しかし、新宮で東海車に乗り換えると、暖房の良さもあり、熊野市あたりから撃沈した。気が付けば、列車は多気手前の森の中だった。多気で快速みえに乗り換え、名古屋でやっとの飯にありつけた。取り敢えずきしめんを食って、キオスクで多少買い足して、新快速に乗った。

あとはいつもの東海道線だ。ここまでくれば目新しさもないし、戻ってきたなという感覚だった。正月休みを機に出されたグローバルエコノミーの課題をkillしなければならなかったので、一応買っておいた参考文献を読み始めた。しかし、疲労もあり、すぐに寝落ちした。結局、そのレポートは執筆自体を放棄することになるのだが、ある程度それが予測できていた私だった。家には23時半に着いた。かくして12月27日から続いた六日間の旅は終わりを迎えたのだった。疲れた。

 

 

旅のブログとしてはここで終えても良いが、せっかくなので事の顛末を記しておこう。どうせ大体の私の行動は、こんなところに書かなくても大抵は読まれているような気がする。

 

 もともとは同窓会中に軽く話して済ませるつもりだった。しかしまあ、四カ月ぶりに会う彼女を前にして場の雰囲気に呑まれたのもあり、会食の席では何も言えず時機を逃した。会食後、各々のグループが二次会を始めようとしていて、彼女も女子会の一派に参加しようとしていた。これを逃してはなるまいと、「す」から始まる最低限の仕事を為す四文字を言った。当然彼女は豆鉄砲を食らったような表情をして、私も沈黙してしまった。そうこうしているうちに女子会の一派はファミレスに雪崩れこんでいった。このまま西鉄で帰ってLineで事後報告的に言うという手もあっただろうが、それが癪に思えた。私もそのファミレスに合流した。彼女を含め一派には申し訳ないと思いつつ、こちらから退く気はさらさらなかった。その後、さすがにプリクラに行こうという話になった時は気おくれしたが、結局行った。(警固公園で飲んでいた男の同期が飛び入り参加してくれたので助かった)

 しかし時間が経つのは早いもので、プリクラの編集を出口付近待つ頃には11時半を回っており、終電が気になってきた。彼女はずっと編集の方にいて、中々降りてこない。これは万事休すか、と思い始めていた時、編集が終わり、彼女もそろそろ帰ると一派に伝えて女友達と足早に去っていった。これがラストチャンスだなと思い、西鉄の終電ヤバいわと言いながら(実際普通にヤバいのだが)彼女たちに追いつき、女友達が地下に下って行ったのを見送って、改めて話を切り出した。23時45分、天神駅の大画面前だった。

 一通りの言葉をかけた後彼女の顔を見ると、気圧された表情をしていた。何か大きなものに打ちのめされてめまいを感じているように見えた。ただただその様を見つめながら、時が止まってほしいと思った。この段階で西鉄の終電を諦め、JRを使おうと決めた。そうは言っても、適当な時間に地下鉄が動いていないから、博多駅までは走るしかない。とすれば、彼女との時間もあと五分もない。一言一言を慎重に選びながら、最低限伝えたかったことを口に出した。その一言一言に、彼女がどう言う風に表情を変え、どう思っているかについては、あまり頭が及ばなかった。天神の交差点に着き、次の信号が青になったら帰る、と言った。色々話したのち、最後に握手をしたいと頼み、する段になって、お互いに手汗がすごいことになっているね、と笑いあった。

 翌日、博多駅近くのカラオケで中学時代の男同士と歌っていたとき、お断りのLineを受け取った。カラオケを一人エスケープした。理屈では分かっていても悲しかったが、気丈に返信したいと文句をひねると余計に空しくなり、電車の中で落ち込んでいた。すると、中学のソフトテニス部の同期と会った。この男は、昔から人をおちょくることにかけては天賦の才があったのだが、この件を話すと、意外とお前やってんな、と言った。こいつにしては随分まともな言い草だ、大人になったなと思って感心していたが、駅のタクシー乗場に中学の同期女子がいるのを見つけると、すぐに言いふらしやがった。こんの野郎と思いつつ、もう遅いことだ。あまりに中学時代に女っ気がなさ過ぎた、というか女子と話そうとすらしていなかったのもあり、大分驚いたようだったが、普通に弄られた。女子は三人組だったのだが、一人泥酔しているのがいて、そいつにはしこたま笑われた。多少腹が立たないでもないが、意外とやるじゃん、と言われた分だけ、心が落ち着いたようにも思う。

以上である。

 

 

今になって振り返ると、やはり遅すぎた恋だった。恋心に有効期限はないのだろうが、成就する時機というのは間違いなく存在し、少なくともその時機を逃しては何にもならない。そして何より女性に臆病すぎた。まともにそれまで話せなかったのに、いきなり「好きです」などと言っても、空虚である。そもそも、告白に拘りすぎた。この時点で負け戦だろう。正確には、告白に拘るしかなかった。色んな人の恋愛談を聞くにつけ、告白以前の前段階が重要であるとは気づいていたのだが、そんな時間の猶予がないことも分かっていた。これから仲良くなってご飯行ってとかいう風に、外堀を徐々に埋めて本丸を落とすという正統派な恋愛がもう出来ないことを知っていた。また、本心をひた隠しにしたままそんな息の長いことをする根気もなかった。だから、余計に告白だけに拘ってしまった。

さらに、告白したことで万事が解決したわけではない。実際、根本的に煩悩から解放されたわけではなく、「今からであっても彼女と関係を構築したい」という別の欲が生じることになり、これをある程度断ち切るのにさらに数カ月を要することになるのだが。当時ほどの苛烈さはないものの、今もその欲が残っていることを否定することはできない。

それでも、言って良かったとは思う。年末ごろの自分というのは、私自身が一浪だから、同期が来年から就活に入ったら尚更会えなくなるだろうと思っていたから、これから彼女に会う機会はこれで最後になるかもしれない、と本気で思っていた。しかも、彼女と遊ぼうと誘う度胸もないし、そもそもまともにラインすること自体ダメだった。時間が忘れてくれると思って春学期を過ごしたが、まあ無理な話だった。こういうことはやれるうちにやっておいた方がいい。それに、告白までは見えてこなかった男と女の話が多少なりとも分かるようになった気がする。上記のような反省ができるのも、玉砕したからであろう。そもそも、春学期あたりに感じていた恋愛に関する問題意識は、「私みたいなのが人を好きになって良いのだろうか」みたいなものであった。こういう原罪的発想に陥ったのは三浦綾子の読みすぎのせいかもしれない。この件を通じ、人間だしそういうこともある、と思えるようになった。どうしようもないことは誰しもあるのだから、気恥ずかしい気持ちにはなるが、それを負い目に感じなくて良いと思えるようになった。

そして、彼女には感謝している。こんなんに付き合わせて申し訳ないし、そんな私に対し誠実に対応してくれたのは、本当に嬉しかった。こういう強引なやり方を取ってしまった以上、嫌がられて突き放されても全く文句は言えないのだが、そういうことをしなかったし、むしろ自分の発言に対ししっかりと応答してくれた。「俺も関東に出てしまった以上、これから会える機会も減っていくだろうから…」という旨のことを言った時、「そんなことないよ、福岡に帰ったらみんなでご飯行こうよ」と言ってくれたのには、胸を締め付けるものがあった。

そして本当に可愛かった。クールっぽいところがある彼女が動揺しているのを見て、こちらまで動揺しそうになった。あれが演技だとすれば相当な腕前だろう、だからこそ見惚れてしまった。彼女の所作に虚構らしきを見出すことはなく、生身の姿がそこにはあったように思えた。それが可愛かった。最後握手して、彼女の手の白さ、小ささ、温かさを知った時、彼女は確かに実在していることを実感し、同時に、ああ女の子だなと、感じてしまった。

何と言われようが、彼女は優しかったし可愛かった。結局、これに尽きる。

 

 

さあ、この旅の総括に立ち返ろう。この旅は、今思うと同窓会を前に景気をつけるという部分が強かった。もし、こういう感情にとらわれていなければ、冬山に行こうとは一生ならなかった気がする。冬山にせよ同窓会の件にせよ、かなり無理はあったがそれでも一定の爪痕は残すことが出来た。これは今になってみれば非常に大きな自信になった。よほどのことではへこたれないし死なない気がしている。そして、この年になってやっと、人生が己のものであるという感覚を得ることが出来た。

山に関して限定して言うと、その後も順調にのめり込んでいった。2月は丹沢の表尾根経由で塔ノ岳に行き、その翌週に部員を誘って相模湖駅から高尾山に登り、さらにその翌週には同期と二人で秩父・伊豆ヶ岳に行った。3月は帰省ついでに伊豆ヶ岳の同期とで九重(降雪で坊がつるで一泊の後撤退)と由布岳に行き、その後一人で耶馬渓、関東に戻ってから馬鹿尾根で塔ノ岳に行った。コロナ報道もどこ吹く風やら、4月は那須三山に奥多摩の大岳・御嶽縦走、五月に帰省してからは車校との折り合いをつけながら宝満若杉縦走を二回、六月には満開のミヤマキリシマを眺めながら九重連山、夏休みには地元の悪友と英彦山に行き久々に酒を交わした。

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ヤマキリシマ咲き乱れる平治岳から眺める坊がつる。正面右手はに三俣山、左手に中岳


九月末に関東に戻ると、その足で上高地に向かい、横尾・涸沢を経由して涸沢岳へピストンした。(二泊三日)奥穂に向かっても良かったとも思うが、諦めた。しかし悔いは
なかった。ガスで景色はクソだったが、久々に穂高の縦走路に立つと去年の夏合宿の思い出が一気にきて、いろんなことが頭をよぎった。夏合宿の槍穂高は先輩に連れてもらったの感が強かったが、今こうして3110mの山頂の標を見ていると、自力でここまで来れたことが嬉しかった。上高地に下山後はバスや電車を乗り継いで土合まで行き駅寝、翌日に巌剛新道・西黒尾根を経由して9カ月半ぶりくらいに谷川・トマノ耳の頂に立った。その後、オキノ耳、一ノ倉岳、茂倉岳と進んで吾策新道で土樽駅まで下った。

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10月1日、涸沢。北穂谷を望む。

 

そして今、一個上の先輩から指名を受け、うちのワンゲルの次期主将になろうとしている。入部時点では誰一人私が主将をやるとは思っていなかっただろうし、私もあり得ないことだとは思っていたことだが、こうなってしまった。今年はコロナで部としての活動ができないというのもあり、個人でバリバリ山に行っている私に白羽の矢が立った格好であろう。

もし去年の11月だろうか、石鎚に行こうと思い立っていなかったら、どうなっていたのだろうか。ここまでバリバリ山に行くこともなかっただろうし、山に対する情熱みたいなものも薄れていたに違いない。あるいは一連の冬山で限界ギリギリを攻めることと自信の味を知ったのだろうから、冬山の経験がなければ少なくとも主将職までは拒否していただろう。今は、主将を全うしようという思いもあるし、まだ正式には決まってないが、他の主力メンバーが是認すれば多分私が主将になるだろう。

時の流れの速さとその予測不可能性に驚くばかりだが、来年は主将として部を盛り立てていきたい。昔から一人遊びばかりでリーダー経験は皆無だが、それでも旅の経験値はそこら辺の連中には負ける気がしないし、上手いごとやっていきたい。まあ駅寝とか野宿はやりたい奴が勝手にコソコソやってればい良いというスタンスなので、強制は絶対にしないので、そこは安心してほしい(笑)。部という組織で動くことで為せるような体験を、同期や後輩に与えたいと思っている。

 

このブログも一旦この辺で閉じよう。暇があれば、上に書いた今年(2020年)の山の記録や、山には関係ないが一年時代の純粋な鉄道旅についても言及したいと思う。ひとまず、こんな読みづらいブログに付き合っていただいた読者の皆様、ありがとうございました。