年末の谷川岳② 11月30日

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紅葉の大倉尾根



 今回の記事では、前回に引き続き、谷川に行くまでの経緯を書き記そうと思う。前置きが長くて申し訳ないが、外せない出来事が多々ある時期でもあった。

 

 

 

 2019年11月30日 8:30AM 小田急渋沢駅

 私がなぜこんなところにいるのかと言えば、冬山を見据えつつ、久々の山で肩をならすためである。選んだのは丹沢の塔ノ岳。渋沢駅からは神奈中バスで大倉まで行き(210円)、大倉尾根を経由して山頂へと至る、片道7kmほど、高低差1200mほどの鉄板コースである。この山は、実は二度目である。では初回はというと、5月の新人錬成山行①である。要は、ワンゲル部員として初めて登った山である。如何せん私の大学は横浜市内にあるため、横浜から近い縦走可能な山として、弊ワンゲルも丹沢には長年お世話にになっているのだ。その丹沢で、多少は歩荷らしいことをして、体を山に慣らそうというのが今回の山行の目的だった。

 

 

 とりあえず渋沢駅のコンビニで水2Lを四本調達。総重量は15㎏前後といったところか。9時ごろ、大倉のバス停から歩を始めた。

 

 大倉の登山口に入ってしばらくの間は、木々に囲まれた単調な登り道である。道は狭めだが、日陰で涼しく快調に飛ばす。歩いているうちに、新錬①では15分に一遍水を飲まんと苦しかったな、とか、あいつ水を500mlしか持って来んで撃沈しとったな、といった風に、新錬①の思い出が蘇ってきた。そう思うと、こうやって一人山に登っていることに寂しさを感じないでもない。

 

 かれこれ一時間ほど歩くと、見晴茶屋の前を通過する。ここから本格的に大倉尾根の長い階段を登っていくことになる。道自体はよく整備されているが、距離も長く標高も上がってくるので、徐々に体力を奪われていく。私自身、駒止茶屋までは軽快に巻きペースで駆け上がってきたが、その後はダウンしてダラダラ歩いた。結局、花立小屋まで来る頃には、コースタイムとほぼ変わらない有様であった。しかも、花立を過ぎてから急に足が痛み始めた。人生初の肉離れだった。そんなこんなで余計ダラダラ歩く羽目になり、12時半になってやっと塔ノ岳山頂に着いた。

 

 山頂に着くと、昼飯に忍ばせたおにぎりとカレーパンを頬張りつつ、山頂からの景色を楽しむ。やはり、丹沢の濃い緑の山々の先にある青々とした富士山は、新錬①のときと変わらず美しい佇まいである。富士の反対側に目を向ければ、スカイブルーの相模湾、それに沿うようにして延びる伊豆・三浦そして遠く房総の半島の群を眼下に収めることができる。時期もあって例えば大山あたりは雪化粧しており、やがては挑むであろう雪山への想像を膨らませて、雪山の頂を踏んでみたいという思いに駆られる。その一方、無雪期の塔ノ岳ごときで足を痛める程度の人間が冬山に身を置いて大丈夫だろうか。ペース配分といいフィジカル面の強化といい、冬山に行く前に乗り越えねばならない課題が多すぎる。そんなわけで、下山時はひたすら今回の山行について脳内反省会を行い、今後の練習計画の方針を軽く考えるなどした。

 
 

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塔ノ岳より望む富士山

 

  だが、この日はまだ終わらない。実はワンゲルの追いコンがあるのだ。山の後で自宅に戻る暇がなかったので、直行である。当然、登山ウェアのまま、馬鹿デカいザックを背負って。まあこんな格好で行ってもいちいち目くじらを立てて文句を言う奴がいないのも弊ワンゲルらしい。追いコンというと、部によっては一流ホテルを貸し切ってスーツ着用がマスト、会費もうん万円というところもある(らしい)が、弊部はというと、いかに費用をケチるかに執心している節があり、今年は横須賀のやっすい古民家を借りて、一通りの儀式を軽く済ませたのちは、適当に酒を飲んだりしょうもない雑談をしたりするだけである。まあいかにもテキトーな人間が集まりがちなワンゲルらしい雰囲気であり、このくらいの雰囲気がちょうどよいのだ。

 

 まあ実をいうと、山の後も久里浜にちょっとした用事があってそこに寄ってから追いコン会場に行ったので、会場入りした時既に21時を回っていた。事前に言ってあるとはいえ、当然大遅刻である。とりあえず古民家の窓を不作法にドンドンと叩いて、存在を認識させる。ややあって、お前かー、となじみのある先輩の声。戸を開けてもらい、室内に入る。お前なんでその恰好や、と即行で突っ込まれ、一気に部員の視線を浴びる。そのうち四年生の先輩が、コイツ誰や、と言う。弊部では、三年の追いコンを以て現役の活動から退くため、彼らとの直接的な接点があるわけではない。そんなわけで三年の現役主将が音頭を取って自己紹介する場を設けてもらった。

 

主将 「やっと来ました、○○です。将来のエース候補です。今日も丹沢に行ったように、一年ながら活動的な男でして、今後を期待できそうな男です。なんでも今年は冬山をやるそうです。まあ詳しいことは本人からどうぞ。」

 

 バレてる…!!しかも全員に…

 

 一瞬ですべてを察した。次期主将が現役主将に冬山の件を話したのだろう。私としては内密にしてほしかったが、よくよく考えれば、やはりワンゲルという組織としては内密のままにしておくことは難しいのだろう。いずれにせよこうして部員の前で話す場を設けて貰った以上、もう隠し通すことは出来ないだろうと分かった。一通りの自己紹介したのち、この件について話すことにした。

 

  

 冬山の件ですけども、年末を中心にやっていきたいと考えています。まずは群馬の赤城山、そして愛媛の石鎚山に行きたいと思います。とりあえず今のところ、今年の冬はこの二座以外の冬山をやることは考えていません。今日はこげん恰好をしとりますが、冬山を見越して久々に塔ノ岳に行ってきて、歩荷らしいことをしてきました。今後も継続的にとレーニングをやっていきたいと思います。

 まあ三年にはお世話なりましたし、最後の最後まで心配をかける羽目になりましが、無事帰ってきて今後のワンゲルの運営の一助となるよう頑張りたいと思います。一・二年については、まあ今は好き勝手やらせてもらってますが、春になって雪が解けたらまた山に行きましょう。まあ、今後ともよろしくおなしゃす!

 

 

 全員から拍手を浴びる。素直に気持ちが良いのは確かだ。四年からは、これで石鎚行けたら将来の主将やな、との声も聞こえた。同期からも、お前が冬山っちゃびっくりだが頑張れよ、と言われた。多少リップサービスもあろうが、言われて嬉しかった。だが、三年の主将はどう思っているのだろうか。あの説明で満足しているのだろうか。そう思っていると、案の定呼ばれた。紙コップにウイスキーを注がれ、まあ飲めよと目くばせを受けつつ、冬山の件もっと詳しく聞かせて、と言われた。

 

 一応、赤城・石槌の地図はザックに忍ばせていた。その地図を見せながら、コースや前泊等、装備などをどうするかなどを説明した。ほかの同期の連中は酒や雑談に現を抜かし、この話を聞いているのは専ら三年の先輩であり、二年・四年の先輩の一部も混ざっていた。ややあって、主将が口を開いた。

 

 「お前が冬山をやり始めるとは思わんかったよ。まあはっきり言って心配ではあるよ。俺自身本格的な冬山に行ったことはないし、ここ十数年はワンゲルとして冬山で活動した実績もない。だから、お前に具体的なアドバイスを送れないんだ。

 でも、お前が行くって言うなら、俺は止めはしない。お前がやりたいって言うなら、俺はそれを止めることは出来ない。まあ、うちの高校(の山岳部)は冬山には行かなかったけど、××(二年の先輩)なら高校の時初春の岩手山に行ったことあるって聞いたし、聞いてみたら?」

 

 否定されなかった!

 

 驚きの方が大きい。勿論、大分心配されたのは確かだったが、明確に行くな!と言ってきた人は皆無だった。夏の北アルプスで同じパーティを組んだ先輩も、

 

 「実は、お前を槍・穂高に連れていくか、相当迷ったんよ。スタミナがあまりなさそうなのは薄々分ってきていたし、実際北穂高山荘で熱中症気味になるわで、世話するのも大変やったんよ。まあ、それでも連れて行ったおかげで、こうやって冬山に行くとか言い出したんやろうし、お前を危険に晒したくないから心配ではあるけど、山にハマってくれるのは嬉しいよ。行くってなら、応援するぜ。」

 

 

 ただただ嬉しかった。大げさに言えば、ワンゲルの組織の構成員という枠組みを超えて、純粋に一人の登山者として認められた心地がした。仮に事故ったら、組織としてのワンゲルにも責任追及の目が向けられ、何らの不都合を部全体に与えるに違いない。そうしたリスクを背負ってまで、私の冬山挑戦を認めてくれたのは、嬉しかった。それも、三年の先輩だけでなく、新執行部代の二年からも賛同を貰えたのも大きい。しかも、新執行部代の一部も、私の冬山行に一緒に参加したいと言ってきた。単独行を前提としてきたというか、単独行しか道はなしと信じていた私にとって、協力者を得られたことはとても大きかった。結局のところ、実際には単独行とはなったものの、以前の想定とは違い、秘密裏にコソコソと準備する必要もなくなった。こうなれば、もうやってやろうという気持ちが固まった。こうして、決意新たにしたところで、同期のもとに行き、そこからは他の連中と同様に暴飲暴食の限りを尽くし、先輩の元カノの話で大いに盛り上がって楽しんだ。

 

 

 

 

 ともあれ、12月になった。これからは冬山に向けた本格的な準備である。

 

 まず1日には、冬山の救急医療の講演のため青学に行った。昔はここで試験監督のバイトをしたこともあったので、懐かしかった。如何せん予備知識に乏しかったため、また前夜のオールのため、中々頭に入ってこなかったが、冬山での緊急対応に関する知見を多少なりとも深めることができたと思う。講演後は山手線で高田馬場に行き、入部以来(横浜店で)お世話になっているカモシカスポーツという登山用具店の本店に行き、そのアウトレットで用具の一部を買い叩いた。DESCENTEの冬山用のハードシェルのズボンを五千円(原価@27,000+税)くらいで仕入れられたのは、よっしゃ!という気分である。

 

 翌週には、ピッケルとアイゼンを購入した。前者が@13,000+税、後者が@19,000+税であった。服やら食い物やらには対して金を掛けなくとも、登山用具には湯水のごとく大金を投入してはひもじい思いをするのは、山男の常である。実際、この時点で、預金残高が一万を割った。勿論、生活のこともあるから、毎月20日の親の仕送り及びバ先の給与振り込みを待たねば、これ以上の買い物は出来ない。結局20日にの金曜に、十万ほど散財して、モンベルやらユニクロやらで衣類を中心に登山用具を揃えたが、谷川の決行日が翌21日であるから、無茶苦茶というより外ない。にしても、この時の振り込みでは、親戚一同からのお年玉と成人祝いが前払いされていたからよかったものの、さもなくば、財政破。綻していただろう。

 

 

 こうした装備面の準備だけでなく、知識・体力面の準備も進めた。とりあえず、図書館に通っては、我々のバイブルである『山と渓谷』を読み漁り、冬山特集やトレーニング法などの項はコピーして頭に入れた。気象学の本を山との関連で読みながら、危険な天気の兆候などを知った。遭難事例に関する本を読んでみたり、新田次郎に傾倒するなどした。バイトなどもあり、専ら土日が中心ではあるが、ランニングをしてみたり、体育館のトレーニング室を(勝手に)使ったりもした。大抵は図書館閉館後も部室に延々籠って前述の本たちを読み、暗くなってからそうした運動を開始するのが常だった。だから、南通門出るころは既に22時というのはザラだった。まあ正しくつけ刃の知識でしかないが、まあ当時を振り返れば、そういうことをすることでしか不安を落ち着かせることができなかったのろう。

 

 

 ともあれ、時は12月20日、23時。

 荷物は全部ザックに詰め込んだ。

 いよいよ明日が本番である。

 

 下手すると今日が最後の晩餐かもしれない。そういうわけで、あらかじめスーパーで買っておいた好物の合鴨ロースのブロックを、薄く切って食った。食費をケチりまくていた時期なので、久々の”奢侈品”であった。やはり、うまい。また食いたいと思いつつ、床に就いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

年末の谷川岳① 逡巡

 


 

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ついに来てしまった…

 上越線で水上まで来たとき、改めて遠くまで来たことを感じた。いくら19年度の冬が暖冬といえども、ここまで来ると、車窓の山々も白く化粧づく。平野の九州人が滅多に見ることがない、白銀の世界がそこにはあった。水上駅周辺でさえ全く積雪がなかったことには軽く拍子抜けしたが、それでもあの山にひとり踏み入れるのかと思うと、身震いがした。そう。いまから冬の谷川岳をめざすのだ。

 

 

 しかし、まあ計画段階からして無茶苦茶な登山だった。第一、前述したように九州人だから、そもそも雪に慣れがあるわけではない。また、登山経験も体力もそんなにあるわけではない。山自体は高校時代に友人と月1くらいのペースで行っていたが、せいぜい400~800mほどの低山ばかりだった。大学に入ってワンゲルに入り、金峰山北岳、そして槍ヶ岳穂高岳などに行かせてもらったとはいえ、元々体力には自信の無い方だった。そして最大の問題点は、同行者がいない点だ。

 

 そもそも、うちのワンゲルは冬山には行かないことを前提としている。当然金がかかるため誰も行こうとしなかったというのはあるだろうが、代によっては現役時の冬山を禁止していた時代もあったらしい。こんな状況では、部内から同行者を求めること自体無理な話であった。

 

 私自身いつから冬山に行こうと思い始めたのか、明瞭な記憶はない。ただ、9~10月にかけては山から離れてしまい、そのために槍・穂高縦走の記憶が蘇って山に行きたくなり、しかもそれがやたらレベルの高い方向に進んでしまったのだろうか。あるいは、単に冬山に行く自分に自惚れたかったのだろうか。多分両方だろう。とにかく、11月の中旬ごろには、冬山に行こうかなあとおぼろげに決意した。そして、その到達目標を、

       石鎚山

に決めた。やはり、西日本最高峰(1982m)というのが大きい。それだけで征服せねばならぬ対象に思えた。また、久々に岩場をやりたかったのもある。しかし、さすがにいきなり石鎚はヤバい。そこで、石鎚の前哨戦として、関東の山を攻めることにした。いろいろ思案した結果、

       赤城山

に決めた。そう、この時点では、谷川に行こうなどとは考えていなかった。否、当初は考えすらしなかった。谷川はヤバそうというイメージが強く、谷川よりは幾分易しめな赤城に行こうというのが肚だった。それでも谷川に行ったのは、やはり19年度の暖冬のによる部分が大きい。二週間前になっても定点観測のカメラにも積雪は認められず、中期の天気予報を見ても積雪の可能性を感じない。このあたりから、赤城では訓練にならんと考え始め、谷川を検討し始めた。そして、赤城の積雪が望めなくなり、一週間前ごろには谷川アタックを決めた。だがこのことは、まだ先の話である。

 

 

 実のところ、冬山に行くと決めてから、次第に不安に苛まれるようになった。そもそも夏山登山でさえ体力的にギリギリだったし、槍・穂高も晴天だったからよかったものの、少しでも天気が崩れれば滑落の危険も高い。雪庇やホワイトアウトといった冬山特有の問題もある。そしてこれらを一人で対処しなければならない。こうしたプレッシャーが次第に重くのしかかってきたのである。そして、このことをワンゲルの山仲間に言うこともで出来なかった。ワンゲルの連中は私の体力は大したことはないことを知ってるし、全力で止めに来るだろう。冬山で事故られれば、それはワンゲルという組織の問題になりかねず、まして事故る可能性の高い初心者一年生を放っておくとは到底思えない。そんなわけで、高校の友人だけにこの件いついて話し、彼に遺書を預けようとも、一時は本気で考えた。

 

 しかし、やはり部員に言わないのはまずいと思った。何だかんだ世話になっとるし、このまま秘密を秘密のままにすることは、私の性質からして無理だと思ったのもある。そこで、次期部長の先輩に伝えることにした。彼も私と同様に山は大学からだし、彼自身も冬山に興味がないでもないと言っていた。実際彼に話すと、お前がか、意外やな、でも良いんじゃない、と言われた。悪い感触ではなかった。とりあえず、私としてはワンゲル部員にこの件を伝えられたことにほっとした。そしてこの日を以て、私は冬山への挑戦を明確に決意したのである。