国内ひとり西遊記 ④砂の鏡

 ロープウェイ山麓駅がある集落は実に鄙びていた。バス停の真向かいに旅館があるが、廃業しているような雰囲気があり、その看板には「団体様のご宿泊も承ります」との趣旨の文言があって、時代の流れを感じた。多分、この辺はロープウェイも含めて、バブル前に開発されたのだろう。そんな気がした。また石鎚を訪ねたとき、それが何年後になるかは分からないが、ここの景色もまた違ったものになるだろう。そんなことを考えながら、西之川からやってきた伊予西条駅行のバスに乗り込んだ。例のお母さんと年長さんとはバス停では少し話していたが、バスでは別々の席に座った。バスが動き始めると、特に喋るでもなく、相変わらず霧に包まれた、水墨画のような山川の車窓に目を遣った。

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今回の石鎚登山を象徴するような空模様だった



 伊予西条に着いた。30分程度の暇時間の後、松山に向かうことにしていた。取り敢えず、駅前のローソンに入り、Lチキを買って下界のささやかな悦びを噛みしめた。同時に、無地の年賀状を10枚買った。出そうとは思っていた反面、石鎚で仮に事をやらかした場合、実在しない人物から年賀状が届く、という事態を避けたかったから、まったく放置していた。もっとも、先に書くだけ書いておいて、石鎚から帰ったのちに投函すれば良かっただけの話でもあるのだが。ともあれ、駅付近の観光案内所にも寄って石鎚山がバックになったポストカードも数枚買った。これは、うちの婆さんとか実家に送る用にしよう。

 伊予西条からの松山行はよく見たら一両だった。やらかした。二両だと思って少しゆっくりめに行動していたから、発車5分前に乗ったって座れなさそうな気がした。少し癪だと思いつつ跨線橋を渡って乗り込んだ。一瞥しただけでまずまずの混雑と分かり、立ち客はいないけれど、座席はほぼ埋まっていた。ため息をつこうとすると、見知った顔が二つあった。例のお母さんと年長さんだった。彼女も私に気づくと、微笑を浮かべて手招きをしてきた。聞けば、私のために広めに腰かけて私の着席スペースを確保してくれていたらしい。GJすぎんか、これ。さらに、彼女はコンビニ袋を差し出して、

「あなたの旅もまだまだでしょう。良かったらどうぞ」と言ってきた。

 やや面喰いつつも、中身を見てみると、幼児向けであろうか、三本パックで売ってそうな150㎖くらいのりんごジュースと、魚肉ソーセージが数本、それにキットカットみたいな軽めのお菓子が数個入っていた。多分、もともと息子さん向けに買っていたものを少し私に流用してくれたのだろう。

この際腹に溜まる溜まらないははどうでも良かった。たしかに昨晩、西条から松山に行ってフェリーで呉に行って…という話をしていたにせよ、私のためにわざわざここまでしてくれたことが嬉しかった。今までの私なら大変恐れ多いとか言って受取を拒否していそうなものだが、今更断る理由もなければその必要もない。すべきことはただ一つである。

「あざます!大切にいただきます!」と謝意を伝えた。

 

 彼女とはしばし歓談を続けていたが、今治でお別れとなった。24時間持たない仲であったが、非常にお世話になった。最後、ぶっきらぼう気味だった年長さんが、たどたどしくも、「おにいちゃん、またね」と言ってくれたのがかわいらしかった。列車が発車するまでホームにたたずんでくれていた彼らに、窓越しから手を振って応えた。列車は今治の街を抜け、どんよりとした瀬戸内海のそばを走り抜けていた。

 

 正午すぎ、松山に着いた。呉行のフェリーに乗るには、あと一時間ほどしかなかった。この時点で松山城や況や道後温泉はカットである。だから松山らしい飯を食らうか、と思ったが、ここで持ち前の守銭奴っぷりを発揮し、飯には1000円もかけられんと自主規制をかけた結果、駅前に適当な店を見出せなかった。あげくに、駅の南側にバッティングセンターを発見し、迷わず入った。別に元・野球部でもないしバッティングフォームも無茶苦茶なのだが、なぜかバッセン通いがやめられないのである。地元には自宅から徒歩10分圏内にあったから良いものの、大学にはその半径5キロ圏内すらない始末なので欲求不満がたまっていた。ここのバッセンは四階部分がバッセンになっているが、県庁所在駅の横で1ゲーム200円かつ20球程度ってのは普通に安い。調子に乗って3ゲームもプレイした。同時に、コンビニ飯が確定した。

 

 大して時間もないので、郵便局に行って年賀状を消化することにした。地図を見ると松山駅からの大通りを東に進むとすぐそこには大手町だった。その大手町の郵便局に行くことにしたのだが、これは楽しみが増えることになりそうだ。大手町はもう少し松山駅から離れていたと勝手に思っていたが、路面電車松山駅の隣だった。何だ、余裕で行けるじゃないか。少し嬉しくなりながら、駅からの目抜き通りを下った。

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大手町のダイヤモンド・クロス

 これが大手町である。正確には大手町駅と大手町電停と言うべきか。見ての通り、私鉄と路面電車が直交していて、路面電車が私鉄電車の発車を待っているようにも見える。列車が列車の発車を待って踏切で停まる、いわゆるダイヤモンド・クロスであり、これが松山・大手町の魅力だ。私鉄電車(高浜線)も路面電車も、どちらも伊予電鉄の車両だからこそ、直交するようなダイヤが組めるのだろう。昭和の時代には阪急の西宮北口駅や福岡・西鉄薬院駅のように、ダイヤモンド・クロスは全国で散見されたが、令和の世となって現存するのは大手町だけだ。高浜線の本数もそれなりに多いため、10分くらい待てば電車と電車の交差は見られる。歩道には、カメラを構えた同業者が散見された。

 まあ、私からすれば、どうしても見たいというような代物ではないけれど、それでも小学校時代から存在を認知していたものをこうやって自分の足で見に行くのも、感慨深い。純粋な乗り鉄旅じゃなくて登山帰りに大手町に寄るというのは、昔の私からすれば予想外であるが。何というか、大学に入って、今まで雑誌や書籍でしか知りえなかった全国各地に旅をするのは、この上ない幸せだと思う。今日もまた、その幸せの一かけらを手にすることができた、そんな心持である。

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高浜駅

 大手町の郵便局で、適当な文句を拵えて婆さん、実家、親戚宛の年賀状を仕上げていると、潮時だった。近くのセブンで軽く飯を買うと、高浜線の電車に乗った。発車すると、松山駅方面の路面電車が停まってくれているのを尻目に、列車は北進した。しばらくすると瀬戸内海の横を走って、終点の高浜に着く。海辺の小さな終着駅というに相応しいこの駅は、昔ながらの木造駅舎が残っていて、舎内の売店がキオスクみたいに大手コンビニに毒されていなかったのが好印象だった。高浜からはバスで五分近く揺られていると、松山観光港に着く。ここから、呉・広島へのフェリーや高速船が出ている。

 学割で呉までで発券してもらい、少し時間が余ったので弁当を食べ、売店を見て回った。すると、目の前に今治タオルが陳列されていた。値段は1500円ほど。今までの私なら見向きもしなかっただろうが、今回はちょっと立ち止まってしまった。バイトもしているし、今の私ならそこまで気にならない値段だ。むろん私が使うわけでもない。しかし。買ってよいものか。悩んだ。色んな可能性、リスクを考えた。結局、買わずに通り過ぎた。やはり買っておくべきだったと後悔し始めたとき、既に船は四国の大陸から離岸していた。昨日から相変わらず、霧が裾野に停滞し、晴れることはなかった。

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瀬戸内海汽船のフェリー。松山観光港から呉港を経由し広島宇品港に至る。

 

 

 呑気にデッキで佇んでいたため、完全に座席の確保を忘れていた。同じ中距離フェリーでも、青函フェリーの深夜便のノリでダラダラしていたから、かなり痛い目に遭った。まあ年末の繁忙期だし(12/30)人が多いのは予想していたが、しまなみ海道があるから大丈夫っしょって思っていたのがまずかった。多分青函みたいにドライバー室がないのだ。さもなくば、雑魚寝スペースが一般客室ゾーンにあるはずがない。それに、家族連れが多くよく言えば賑やかなのだが、子供たちがいる場所にこんな大荷物背負って入る度胸もない。

当時の私の最大の懸案事項は、スマホ・及びモバイルバッテリーの充電だった。昨晩の白石旅館でやったとはいえ、特にスマホに関しては心許ない。当然ながら、プラグがある座席は須らく埋まっている。プラグがない席は空きが見られるが、ザックという大荷物の管理もあって目を離すわけにはいかない。かと言って座席付近の通路は広いわけでもなく、そこにザックを置けば往来に支障を来す。

こんな感じで右往左往していると、最適解を見つけた。売店があるのだが、その近くにある椅子とテーブルがあり、椅子の真向かいに一人座っているが、もう一方には誰も座っていない。うまく置けばザックも邪魔にならないし、コンセントも近い。相席の格好にはなるし売店の呼び出し等でうるさいから眠れないけれど、まだマシだ。軽く一声かけた後、ゆっくり腰を下ろし、一息ついた。

 

場所としてははやり微妙だった。売店に近いから眠れる筈もなく、また景色を楽しむにも微妙だった。じゃあ、手を動かすかってことで、〆切の一カ月前から提示されているのにその一週間前からしか手を付けない期末レポートのように、腫物のように忌避してきた年賀状の作成に取り掛かった。

年賀状にしても、最初はネットプリントしてもらおうと思った。11月ごろスマホ片手に軽く見積をとったが、一発目のサイトでは、で最小単位が30枚以上、早割適用で30枚¥3,000~4,000(具体的な数字はうろ覚え)とかで、相場はそんなもんなんかと絶句した。他をあたったが、似たようなものであった。そう思うと、親父やお袋宛の年賀状で子供との家族写真を載っけている方々は、相当金をかけてんだなあと感心するが。しかし、学生にこの額はキツイ。それに相手もどうせ同年輩の学生ばっかなので、そんなに金をかけることでもない。というわけで、最低限の仕事を為せばよいのだと割り切って、wordファイルで登頂したときの写真を7枚ほど貼っつけただけのPDFを作り、それをカラーでプリントアウトしたうえで、その写真を無地の年賀状に貼っつけるという手法を取った。これでいいのだ。

取り敢えず写真は槍ヶ岳編と谷川岳編を用意した。夏合宿で世話を焼いたC隊のパーティーの先輩には槍ヶ岳山頂でのC隊の登頂写真が一番だが、冬山の件で色々世話になった先代の主将には谷川岳の方が良かろう、的な感じで一人一人年賀状を割り振っていく。それが終わると、チョキチョキ切ってはペタペタくっつける手作業を延々と繰り返す。そして、部内のメンバー宛のやつには内容が被らないよう頭をひねり、まず主将宛から取り組んだ。

 

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フェリーから見た呉の街

そんなこんなでペンを走らせていると、まもなく呉港に到着しますとのアナウンス。窓に目を遣ると、鼠色の巨大な物体が見えた。自衛隊の艦船だろうか。荷物を背負ってデッキ付近に立つと、自衛隊の艦船だけでなく、巨大なタンカーやクレーンが見えた。これが軍都呉であろうか、という威圧感があった。呉線には夏に乗り通したとはいえ、こんな景色が広がっているとは知らなかった。海上から街を見渡すという構図は、鉄道旅一辺倒な私には斬新だった。ただただ、呉の街の方を、食い入るように見つめていた。

 

呉駅前の郵便局で年賀状を少し投函すると、安芸路ライナーに乗って広島に向かう。広島では40分ほどの待ちがあった。取り敢えず、立ち食いうどん屋に行ってかき揚げ&ちくわ天で腹ごしらえし、コンビニで翌朝の飯を調達する。一通り準備が整ったので、個人的に広島駅一の愉しいゾーンに行った。それは、広島駅一番線である。

 

 広島駅の一番線。今でこそ広島駅も橋上駅となったが、私が初めて一人で広島で下車した小5の夏、在来線の駅舎・主要改札口は一番線にあった。あの時はただ駅スタンプを求めて下車しただけだと思うが、その時に流れた接近メロディがかなり頭に残った。その後も、大阪の叔母を訪ねて何度か広島を訪ねたときも、このメロディを聞きに一番線を訪ねた。中一の秋、叔母は亡くなりそれっきり18切符とも無縁の生活となり、広島も遠くなってしまったが、中学の卒業旅行で再び18切符が与えられると、中学の友人と二人で広島に来た。高校の卒業旅行はそいつを含めた三人で三江線乗りつぶしだったが、その時も広島に来て皆でお好み焼きを食った。そんな思い出の地である広島にあって、この広島駅1番線のメロディはそれを聞きに行くだけの価値があった。

 後で知ったことだが、そのメロディの原曲は「姫神」の『砂の鏡』というらしい。「姫神」はテクノ系音楽と東北の民俗音楽を融合させた楽曲を提供するアーティストである(岩手に姫神山という山があり、そこから名を取ったらしい)。それと、実はこのメロディ、五番線でも聞くことが出来るのだが、まあ細かいことはどうでも良い。この『砂の鏡』のメロディは、どこか人生の流れを感じさせる深みがある。それは、山陽が青春時代の思い出という私の事情があるにしても、やはりそう感じる。人だけでなく、車両も駅舎も街も色々全て変わってしまったけれど、それでもこのメロディを聞くと、小・中時代から変わってない事柄の方が頭に浮かぶ。今日もまたこうして思い出の一番線に立って、かつての旅の思い出に浸りつつ、この『砂の鏡』のメロディを聞いて不易流行を感じる、これが私の広島駅の愉しみ方である。気づけば岩国方面の列車が接近して、所謂「味の素チャイム」の後、例の『砂の鏡』メロディが流れる。これだ。これを聴くためだけに広島に来たとさえ思う。石鎚で下手すれば死んでもおかしくなかったと思うと、本当に聴けてよかったなと思う。

 

 名残惜しさも相半ばしながら、九番線に向かった。これまた高校の卒業旅行以来の芸備線だ。快速三次ライナーに乗って三次を目指す。あの時は夕食のお好み焼き屋探しに時間を食って、20時発の三次ライナーに乗り損ねて一時的に険悪なムードになったが、それもまた懐かしい。想像通り混んでいたが、下深川を過ぎるとガラガラで余裕だった。芸備線はあの旅の後の7月、西日本豪雨で被災して橋梁が流失、復旧に一年以上を要した。実際この旅も、復旧から三カ月も経っていなかった。見づらい車窓の中にも川が近いのを感じる。旅の範囲が広がるにつれ、旅した地域・路線が被災するという事態になりがちだから、今こうして旅ができるのも必然ではないんだなと改めて思う。

 三次に着いた。三江線が無くなった今、二面三線の構内も余剰であろう。三江線の時は駅から15分ほどのホテルに投宿したが、今日はまだ旅が続く。三次ライナーの横に停まっていた備後落合行に乗った。高校生が数名と老婆が二名ほどいた。そうは言っても、だんだん減っていくのは目に見えていて、備後西城で一人になった。まあその方が後々都合が良い。車窓から駅舎をチラチラ眺めつつ、年賀状に筆を走らせた。

 

 備後落合に着いた。察しの良い方もいらっしゃるかと思うが、まあ今日も駅寝である。自分でもブログに堂々と駅寝しましたとか書くべきではないと思うし、駅寝の害悪性も理解しているつもりだが、駅寝してでも備後落合には来たかった。ここは芸備線木次線の乗換駅だが、時刻表を見ても察しがつくように、かなり閑散としている。芸備線の新見方面と木次線は一日3往復、芸備線の三次方面も一日五往復という有様だ。かつて芸備線木次線は山陽と山陰を結ぶ陰陽連絡線としての役割を期待されていたが、中国山地の山間を縫うような路線の線形上、高速化には向かなかったため、陰陽連絡線はもっぱら倉敷~新見~伯耆大山(米子)がメインとなって、両線はただのローカル線に転落した。それに伴い、かつては有人駅だった時代もあるが、今はただの無人駅と化し、秘境駅と呼ぶ声もある。そうは言っても、構内は比較的広く、かつての遺構も数多く残っている駅としても知られている。

 

 ワンマンだったから、運転手に18きっぷを見せると、齢55はありそうな運転手は特に何も言わず返してくれた。取り敢えず駅舎というか待合室に入って、観察を加える。ここで地元の方がいらしたら、間違いなく不審者扱いだろう。場所が場所なだけに警察が急行することもないだろうが、旅先で厄介ごとを起こすのも馬鹿らしい。とにかく、駅寝の時は、人が周りにいないことが望ましい。

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備後落合駅駅舎内部。椅子備え付けの座布団もポイントが高い

 にしても、この備後落合は、無人駅にあってはかなり整備されている方である。駅ノートの書き込みもそれなりに多く、私も恒例のカキコをする。個人的にビックリしたのは、駅の歴史や遺構についてを説明するパンフレットが置かれていた点だ。最近、町おこしの一環で秘境駅を積極的に観光資源として使おうという向きがあるが、わざわざパンフレットまで置くとは。しかも、そのパンフレットの内容もかなり詳細だった。駅構内の掃除も行き届いており、愛されている駅なんだなと感じた。見ていて非常に気分の良い駅だった。

 ホームに出た。すると、乗ってきた備後落合行のキハ120が停車していた。駅舎の東側は明るく光っており、さっきの運転手がいるのだろう。今時、夜間に停留させるパターンは大分減っている(主要駅まで回送する場合が多い)と聞くので、中々珍しいものに立ち会ったものだ。ホームなどの観察を終えたし、寝ても良いのだが、まだ早い。そこで、散歩に出かけることにした。そうだ、確かこの辺にはドライブインおちあいってのがあって、おでんそばという名物があったはずだ。まあ、どうせこんな田舎でこんな時間までやってるとは到底思えないが、暇潰しには悪くはない。21時半、駅を出た。

 

 需要がないのだろう。駅がある高台を下りたところの国道には、街灯が明らかに少ない。石鎚登山ではまともに使わなかったヘッドライトを使い、存在を車に認知させる。当然アホみたいなスピードで飛ばしてくるし歩道もないから、多少の自衛は必要だ。もっともドライバーからすれば、こんな時間にこんな場所でヘッドライトを点けて歩く人間がいる方がよっぽどホラーであろうが。

 しかし場所柄、車はほとんど来ない。そうすると、ヘッドライトを点ける意味も大してない。暗い方がなんか落ち着くことに気が付いたのだ。視力にも自信があるし、車が近づいても音とヘッドライトで自分との距離は大抵読める。それに、ふっと顔を上げると、星空が綺麗に映っていた。多少雲がかかっている箇所は散見されるが、それでも空気の乾燥と山中の光のなさは、星々をより鮮明に映し出していた。こうなっては、ヘッドライトなぞ邪魔でしかない。ポッケにしまい、時たま立ち止まりながら無数の星々を眺めた。

 冬の星座の知識がないもので、こういう時につまらないよなと自省する。星の知識と言えば、そういえば地学基礎で超新星爆発とかやったものだ。あの時の知識によれば、恒星はやがて爆発を起こし、場合によっては白色矮星になって消える、と習った筈だ。だが、その恒星と地球との距離の差と光速とのギャップから、爆発後も輝き続けるという話もやった。そうすると、今視界にある星々は実在しているのだろうか。あるいは、あの輝きこそ、死んだ星の最後の輝きなのかもしれない。そんなことを考えていると、小椋佳の『俺たちの旅』の一節が頭に浮かんだ。

〽夢の夕陽はコバルト色した空と海 交わってただ遠い果て

 輝いたという記憶だけでほんの小さな一番星に 追われて消えるものなのです

 

 ドライブインおちあいは、駅から15分ほどだっただろうか。当然やってるどころか明かり一つ点いていなかった。自販機は動いているし、多分廃業まではいってない。んで目的は果たしたことだし、帰るかと思うと、ドライブインの中から人影が現れた。えっ⁉て感じだったが、やはり人だった。管理人なのかもしれない。向こうも私に気が付いたようだ。かと言って不審がる様子もなく、そっけなく顔を背けた。まあ、例えばバイク乗りが自販機のために立ち寄るみたいなことはあり得そうだ。吸い寄せられるように自販機に近寄り、缶コーヒーを買っていた。

駅に戻った。駅舎東側の明かりは消えていて、あの運転手さんも寝たことだろう。私はというと、さっき買ったコーヒーを片手に日記や年賀状を仕上げていた。23時だっただろうか、駅舎の明かりが突然すべて消えた。なるほど、時間を区切って自動消灯させているらしい。いっときビックリしたが、もう潮時だろう。従容として寝ることにした。

 

 

 駅寝に限らず、まともな布団やベッド以外で寝ると、大抵1~2時間に一回くらいの割合で目が覚める。それを数回繰り返して寝た気分になる、というのがいつものパターンだ。今日もそんなこんなで4時20分になった。列車は6時半くらいなのであと一時間は休める。そう思ってまた寝始めた。4時半になって、突然待合室内の明かりが点いた。なるほど、消灯・点灯ともに時間で区切ってあるのか。しかし、まだ眠いぞ!寝させてくれ、と無理矢理目をつぶった。しかし、いきなりの点灯に頭が痛く、列車的にも6時43分発を逃す勢いで寝そうだったので、5時で起きた。消化不良の感は否めないが、ここはリスクを取った。

 さすがにカップ麺も飽きるので、広島駅で買ったおにぎりを食おうとするが、…一個しかない。そうだ、備後落合に来るまでに三個の内二個をつまみ食いしたんだわ…お湯の用意はあったとはいえ、まあ残ってるっしょと高をくくっていたカップ麺の方がなかった。一応、わかめスープの素はあったため腹は一応膨れるが、持たないだろう。そのとき、昨日松山行電車でお母さんからもらった魚肉ソーセージの存在に気が付いた。これなら、噛むから多少腹にも溜まるはずだ。りんごジュースも旨い。この時に、あのお母さんのGJっぷりを改めて感じた。

 

 駅舎に広げた寝袋やマットを片付けて、ザックにつめていると、6時を越えていた。荷物をホームに運び出し、改めて観察をしていると、昨日の運転手さんがいた。三次まで引き返すようだ。私の顔を見るや、昨日とは打って変わって非常ににやけた感じで、

「あっ、昨日のお客さんじゃないですか。どうせ駅寝したんでしょ?たまにいるとは聞くけど、久々だなあ。八年ぶりだよ。にしてもすごい荷物だね。比婆山でも登るの?」

「いや、もう登ってきたんですよ。愛媛の石鎚に行って今日はこっちに来ました。でもいつか、比婆山も登ってみたいですね」

 比婆山はこのあたりの名山だ。備後落合の三次よりの隣駅が比婆山でもある。

「それでも、今年はまだいいよ。この辺も例年この時期は雪が積もって大分寒いからね。やっぱ今年は暖冬だな」

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6:37AM 西日本の夜明は遅い。左が三次行、右が新見行

 そんなこんなで、大学で上京した息子さんの話や、例年のこの辺の天気の話で盛り上がった。すると、向かい側のホームに新見からの列車が来た。ここで折り返してで再び新見に向かう。私が乗るのもこの新見行だ。三次行の運転手と別れ、新見行の運転手と少し話す。彼も私を駅寝だと看破し、若干引き気味だった。新見からの列車には明らかに鉄ヲタみたいな若い男が乗っていて、なんでここに乗客がいるんだ見たいな目で、凝視してきた。気持ちは大いに理解できるのだが。彼は三次行に乗り換えた。多分、ただの乗り鉄だろう。

 6:43。新見行は夜の闇と霧に包まれた備後落合駅から動き出していった。