国内ひとり西遊記 ⑤あけぼの

 

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潮岬で見た初日の出

 備後落合からは、一日三往復の区間に入る。(備後落合~東城間)昔ならこういう区間に乗れるだけ興奮していたのだが、今は疲労の方が勝る。冬至に近い時期の西日本は日の出がとても遅く、七時になってやうやう明るくなりゆく感じだから、眠気に拍車がかかる。せめて、駅舎だけは目に焼き付けようと目をこする。それでも、一級品秘境駅の内名を見逃したのは残念だった。

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ん?

 さて、この列車の終点は新見だが、芸備線の終点ではない。新見の二つ手前に備中神代という駅があり、ここから芸備線が分岐している。新見~備中神代間は伯備線という路線を運航しているのだ。その備中神代と新見の間に布原という駅がある。この布原で降りた。

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布原駅。旧仮乗降場にありがちな無駄のない簡素なホーム。

 この布原という駅、時刻表を一瞥しただけで中々癖のある駅だと分かる。伯備線の駅なのに、伯備線の列車が一本も停車せず、芸備線直通の列車しか停まらないのだ。そのわけは、国土地理院の地形図を見れば一発で分かる。完全に主要道から外れている集落だからだ。伯備線と並走している国道180号線も、新見から備中神代間は完全に離れたところを走っているし、この区間伯備線と並走している岡山県道8号線も駅から数十メートル高い丘の上を走っており、この丘を100mほど下って小川を下ったところに、布原集落、そして布原駅はあるのだ。もともと布原駅は信号所として成立し、住民の請願を受けて仮乗降所として旅客扱いを開始し、後に正式に駅に昇格したという歴史を持つ。

 しかし、元々ほとんど住民がいない陸の孤島というのもあり、わざわざ伯備線の列車を止める必要もないと判断されたのか、芸備線の列車しか停まらない。ホーム長も一両分と短く、待合室などあるはずもない。巷で言われるところの秘境駅だ。秘境駅ランキング自体もそこそこ高く(30位)、中々噛み応えのある駅だった。

 一通りの観察をしたのち、新見駅まで歩き始めた。駅前には結構しっかりした住宅があって、これが秘境駅らしさをなくしているという見方もある。もっとも、この住宅から人がいなくなれば、間違いなく廃駅の方向に傾くだろう。八号線への道を歩いていると、車が坂を下ってきていた。軽く会釈して道を譲ったが、車は特に減速することなくそのまま下りていった。多分訪問者もまあまあいる駅なので、一々反応するのが面倒くさいというところだろう。

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新見駅までの散歩道の途中、県道八号線からの分岐。右が八号線で備中神代方面。これを左に行けば布原駅だが、この先に駅がありますと言って信じる人がどれくらいいるだろうか。

中々ブッシュが酷くて、駅を眺めるのは次第に難しくなる。舗装されているとは言え、普通に山登りをしているような感覚だった。駅間距離3.2㎞に騙されてはいけない。中学時代の計画は、純粋に営業キロだけを参考にして駅間歩きの計算をしていたから、昔なら普通に計画が崩壊していたのだろうと思って苦笑する。でも、山歩き趣味のきっかけは、間違いなく秘境駅探索に始まるような気がする。秘境駅に効率よく回ろうとすると、徒歩が必要になってくるし、山道に近いような道も多く、それで歩くことへの耐性がついたような気がする。繋がってんだなあと、少ししみじみと感じた。

新見で軽く買い出しをすると、姫新線のワンマンカーに乗った。車窓は単調だったが、駅舎に木造駅舎が多く、非常に興味をそそられる。津山で乗り換え、同じように思えた景色を見つめていたら佐用だった。小さな郵便局に年賀状を数枚出して、スーパーはくとに乗った。智頭急行はまさに高規格路線で、気動車であることを忘れる快さだ。もう少し携帯の充電の時間が欲しかったと思いながら、鄙びた農村を見つめた。上郡からの山陽本線は、案の定18きっぱーという名の同業者が多くいて、地獄絵図だった。姫路駅での椅子取り合戦も中々熾烈であった。ドアの開く向きが右か左か。これをいかに早く知り、如何にそのドア付近に立つことが重要か。高校時代の西鉄での通学で、嫌というほど思い知らされた経験の蓄積がここでは効いた。

大阪に着いた。軽くおにぎりを買って関空・紀州路快速に乗り込んだ。阪和線は思えば8年ぶりだ。かつて叔母が岸和田や貝塚で教師をしていたのだが、8年前に癌で亡くなった。その葬式以来だった。

彼女が存命の頃、母が年1回は叔母の家に連れてってくれた。小学校低学年までは当然新幹線だったが、6年生になったとき、18切符で行きたいと強くせがみ、阪九フェリーならと渋っていた母を説得させ、弟と二人で山陽本線を乗り継ぎながら岸和田まで行った。かくして私は18きっぱーになった。久々に来てみて、変わったところはたくさんある。せまっ苦しかった東岸和田駅は高架化されて見違えるほど整った駅舎になった。羽衣線103系や381型特急はもういなかった。それでも、相変わらず接近メロディはあまり変わっていないし、街並みも見ていて懐かしい。金がないのと外泊許可が出ないのもあって、ここに来るまで8年もかかってしまった。それでも、少年時代の思い出が詰まった車窓を眺められて良かった。思い出を回収するために再訪するのも、旅の目的として良いと思う。

和歌山に着いて、最後の年賀状を出すと、御坊行に乗った。今日は串本まで行こうと思っていた。時間が少し余っているので、和歌山で旨い飯でも食おうかと思っていたが、今日は大晦日、新年を前にさっぱりして臨みたいと思い、駅近の温泉を探したところ、御坊が良かった。というわけで、御坊に向かい、駅から20分くらいのところにあったスーパー銭湯に入った。

湯船につかってふうっと息をつき、これまであまり考えてこなかったが、旅先では温泉もちょくちょく入れたほうがいいなと思った。露天風呂のテレビではガキ使をやっていて、数カ月ぶりに見るバラエティーに思わず声を上げて爆笑してしまった。サウナや岩盤浴にも手を出して仕上げた。御坊から紀伊田辺行の列車に乗ると、石鎚の前に寄った宇野のスーパーで買った梅酒を取り出し、ウィルキンソン炭酸で割って晩酌とした。風呂上がりの列車で一人チョビチョビ飲む酒は旨い。そして、いい具合にウトウトできる。客が少ないクロスシートの車内だからこそ為せる業である。

紀伊田辺から串本行の最終に乗って串本に着いたのは23時半過ぎだった。ラジオをつけると、蛍の光、そしてゆく年くる年であった。どん兵衛の鴨そばに御坊のスーパーで買った海老天を乗せて年越しそばとしながら、駅前のバス停のベンチに佇んでいた。ラジオの中継は北アルプスのある山小屋だった。燕山荘だった気がする。私も冬山には行ったとはいえ、この時期に標高3000m近いところに行くなんてご苦労なことだな、と思った。まさか俺が冬の北アルプスに行こうとはよもや思わないだろうと、当時は思っていた。

 

時報が鳴った。2020年だ。どんな1年になるんだろうか。東京五輪のボランティアで忙しいのだろう、山からは離れるんだろうな、と漠然と感じていた。先輩は劔に行くと言ってたけども、俺は北岳間ノ岳をリベンジしたいなあと思っていた。そして後輩君ができるんだろうけども、多少は慕ってもらえたら良いなくらいに思った。この妄想が、すべて外れることになることは、まったく想像もつかなかったのだが。

さて、今更だが、なぜ串本に来たか。それは日本地図が頭に埋まっている人間なら分かると思うが、串本は本州最南端の潮岬を擁する町だ。だから、本州で一番南で初日の出を拝みたかった。それだけである。

しかし、石鎚の準備に気を取られていて、潮岬について高をくくっていた。駅近だと思っていたが、実は駅から8㎞離れていた。当然バスもない。歩くしかなかった。しかも西岸側から行くのが最適解なのに、東岸側から行ってしまい、余計に歩く羽目になってしまった。ザックの荷物は15kgくらいあるがデポするわけにいかないし、登山靴なので舗装路を歩くのは余計にきつい。いずれにしてもこうなるのは分かっていたが、きつい。道すがらの自販機でコーラを買って一息ついて、再び歩き始めた。

 それにしても空が綺麗だった。夏に梓川上流の横尾で見たミルキーウェイに匹敵する美しさだった。高所でなくても、亜熱帯地域でもこんなに美しくはっきり見えるものか、と感動した。集落を抜けると完全な無人地帯で、道路の街灯の間隔も長くなる。備後落合での経験もあるから、ヘッドランプはつけない。下の方から波打つ音が聞こえ、遠くに橙色の光が見えたかと思うと、漁船だった。ガタガタとエンジンを鳴らしつつ、汽笛を響かせた。車も10分に一回くらいのペースでしかすれ違わない。静謐な夜であった。

 改めて星を眺めた。何がどれとかは全く分からないのだが、ただただ美しかった。よく目を凝らすと流星が見えた。少し視線をずらすと、断続的に流れ星が流れていると分かった。こんなに簡単に流星が見られるのがとても嬉しかった。何となく子供心が蘇った。願い事が叶いそうな気がした。空を見つめながら流星を待ち構え、ある女性の苗字を三回唱えた。多分間に合ったと思う。これで万事良しと思った。

 

 潮岬の公園に着いたのは2時半だった。思った以上に車があって、人だかりができていた。流石に疲れてしまったので、トイレ脇のベンチに腰掛けて2時間ほど眠りに落ちた。起き上がると、さらに人が増えていた。寒すぎて、思わず冬山用のアウターを上下で着た。京阪神地区からわざわざ見に来る人も多いのだろうか、五時の時点で最前列は完全埋まっていた。やはり初日の出というのは、静かに楽しむのが難しいらしい。

六時を過ぎて、黒い闇の地平部分が帯状に段々青くなっていく。人々の様子も段々せわしなくなってくる。六時半を過ぎるとその帯は赤みを帯びてくる。いよいよ、人々がソワソワし始め、そこにいる人たち全てが今か今かと待ち構える雰囲気になる。その赤も次第に段々濃い赤となっていき、やがて黄金色の輝きを放ちだす。ここまで来るともうカウントダウンも始まってくる。

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7:04AM 朝日が水平線から光の矢を放つ

7時04分だった。ついに大海原の向こうに、黄金色の光が姿を現した。2020の夜明だった。初日の出を見に行ったのは高2の皿倉山以来二度目だが、それとは比べ物にならないほど神秘的だった。天気だけの問題ではない。今回の夜明は、ただただ視界の問題にとどまらないような気がした。2020という年が、私の人生の本当の始まりのように思えた。だから、ただただ黙って見つめてしまった。

串本駅まではバスがあるそうなので、安心してそれに乗ることにした。暇潰しに、岬近くの絶壁の岩場で遊んだ。石鎚と違って視界がクリアな分、事故ったときの結果がすぐにわかってしまうのが怖かったが、楽しかった。あまり部活としてはやってこなかったけど、海沿いの岩場も良いものだ。こういうのに気付けるというのも、一人旅の醍醐味だと思う。

 

 

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海が蒼い!

串本に戻ると、紀勢線の列車に揺られて車窓を楽しんだ。昨日は夜で全く見えなかったが、晴天の太平洋は気持ちが良すぎる。昔やっていた全国鉄道百線の旅という番組の紀勢本線版のエンディング曲が Have  You Never Been Mellow だったが、それが本当に似つかわしい海景色だった。(写真を撮れば良かった…)福岡の玄界灘にはない明るさと広さだった。まさに大らかな海だった。しかし、新宮で東海車に乗り換えると、暖房の良さもあり、熊野市あたりから撃沈した。気が付けば、列車は多気手前の森の中だった。多気で快速みえに乗り換え、名古屋でやっとの飯にありつけた。取り敢えずきしめんを食って、キオスクで多少買い足して、新快速に乗った。

あとはいつもの東海道線だ。ここまでくれば目新しさもないし、戻ってきたなという感覚だった。正月休みを機に出されたグローバルエコノミーの課題をkillしなければならなかったので、一応買っておいた参考文献を読み始めた。しかし、疲労もあり、すぐに寝落ちした。結局、そのレポートは執筆自体を放棄することになるのだが、ある程度それが予測できていた私だった。家には23時半に着いた。かくして12月27日から続いた六日間の旅は終わりを迎えたのだった。疲れた。

 

 

旅のブログとしてはここで終えても良いが、せっかくなので事の顛末を記しておこう。どうせ大体の私の行動は、こんなところに書かなくても大抵は読まれているような気がする。

 

 もともとは同窓会中に軽く話して済ませるつもりだった。しかしまあ、四カ月ぶりに会う彼女を前にして場の雰囲気に呑まれたのもあり、会食の席では何も言えず時機を逃した。会食後、各々のグループが二次会を始めようとしていて、彼女も女子会の一派に参加しようとしていた。これを逃してはなるまいと、「す」から始まる最低限の仕事を為す四文字を言った。当然彼女は豆鉄砲を食らったような表情をして、私も沈黙してしまった。そうこうしているうちに女子会の一派はファミレスに雪崩れこんでいった。このまま西鉄で帰ってLineで事後報告的に言うという手もあっただろうが、それが癪に思えた。私もそのファミレスに合流した。彼女を含め一派には申し訳ないと思いつつ、こちらから退く気はさらさらなかった。その後、さすがにプリクラに行こうという話になった時は気おくれしたが、結局行った。(警固公園で飲んでいた男の同期が飛び入り参加してくれたので助かった)

 しかし時間が経つのは早いもので、プリクラの編集を出口付近待つ頃には11時半を回っており、終電が気になってきた。彼女はずっと編集の方にいて、中々降りてこない。これは万事休すか、と思い始めていた時、編集が終わり、彼女もそろそろ帰ると一派に伝えて女友達と足早に去っていった。これがラストチャンスだなと思い、西鉄の終電ヤバいわと言いながら(実際普通にヤバいのだが)彼女たちに追いつき、女友達が地下に下って行ったのを見送って、改めて話を切り出した。23時45分、天神駅の大画面前だった。

 一通りの言葉をかけた後彼女の顔を見ると、気圧された表情をしていた。何か大きなものに打ちのめされてめまいを感じているように見えた。ただただその様を見つめながら、時が止まってほしいと思った。この段階で西鉄の終電を諦め、JRを使おうと決めた。そうは言っても、適当な時間に地下鉄が動いていないから、博多駅までは走るしかない。とすれば、彼女との時間もあと五分もない。一言一言を慎重に選びながら、最低限伝えたかったことを口に出した。その一言一言に、彼女がどう言う風に表情を変え、どう思っているかについては、あまり頭が及ばなかった。天神の交差点に着き、次の信号が青になったら帰る、と言った。色々話したのち、最後に握手をしたいと頼み、する段になって、お互いに手汗がすごいことになっているね、と笑いあった。

 翌日、博多駅近くのカラオケで中学時代の男同士と歌っていたとき、お断りのLineを受け取った。カラオケを一人エスケープした。理屈では分かっていても悲しかったが、気丈に返信したいと文句をひねると余計に空しくなり、電車の中で落ち込んでいた。すると、中学のソフトテニス部の同期と会った。この男は、昔から人をおちょくることにかけては天賦の才があったのだが、この件を話すと、意外とお前やってんな、と言った。こいつにしては随分まともな言い草だ、大人になったなと思って感心していたが、駅のタクシー乗場に中学の同期女子がいるのを見つけると、すぐに言いふらしやがった。こんの野郎と思いつつ、もう遅いことだ。あまりに中学時代に女っ気がなさ過ぎた、というか女子と話そうとすらしていなかったのもあり、大分驚いたようだったが、普通に弄られた。女子は三人組だったのだが、一人泥酔しているのがいて、そいつにはしこたま笑われた。多少腹が立たないでもないが、意外とやるじゃん、と言われた分だけ、心が落ち着いたようにも思う。

以上である。

 

 

今になって振り返ると、やはり遅すぎた恋だった。恋心に有効期限はないのだろうが、成就する時機というのは間違いなく存在し、少なくともその時機を逃しては何にもならない。そして何より女性に臆病すぎた。まともにそれまで話せなかったのに、いきなり「好きです」などと言っても、空虚である。そもそも、告白に拘りすぎた。この時点で負け戦だろう。正確には、告白に拘るしかなかった。色んな人の恋愛談を聞くにつけ、告白以前の前段階が重要であるとは気づいていたのだが、そんな時間の猶予がないことも分かっていた。これから仲良くなってご飯行ってとかいう風に、外堀を徐々に埋めて本丸を落とすという正統派な恋愛がもう出来ないことを知っていた。また、本心をひた隠しにしたままそんな息の長いことをする根気もなかった。だから、余計に告白だけに拘ってしまった。

さらに、告白したことで万事が解決したわけではない。実際、根本的に煩悩から解放されたわけではなく、「今からであっても彼女と関係を構築したい」という別の欲が生じることになり、これをある程度断ち切るのにさらに数カ月を要することになるのだが。当時ほどの苛烈さはないものの、今もその欲が残っていることを否定することはできない。

それでも、言って良かったとは思う。年末ごろの自分というのは、私自身が一浪だから、同期が来年から就活に入ったら尚更会えなくなるだろうと思っていたから、これから彼女に会う機会はこれで最後になるかもしれない、と本気で思っていた。しかも、彼女と遊ぼうと誘う度胸もないし、そもそもまともにラインすること自体ダメだった。時間が忘れてくれると思って春学期を過ごしたが、まあ無理な話だった。こういうことはやれるうちにやっておいた方がいい。それに、告白までは見えてこなかった男と女の話が多少なりとも分かるようになった気がする。上記のような反省ができるのも、玉砕したからであろう。そもそも、春学期あたりに感じていた恋愛に関する問題意識は、「私みたいなのが人を好きになって良いのだろうか」みたいなものであった。こういう原罪的発想に陥ったのは三浦綾子の読みすぎのせいかもしれない。この件を通じ、人間だしそういうこともある、と思えるようになった。どうしようもないことは誰しもあるのだから、気恥ずかしい気持ちにはなるが、それを負い目に感じなくて良いと思えるようになった。

そして、彼女には感謝している。こんなんに付き合わせて申し訳ないし、そんな私に対し誠実に対応してくれたのは、本当に嬉しかった。こういう強引なやり方を取ってしまった以上、嫌がられて突き放されても全く文句は言えないのだが、そういうことをしなかったし、むしろ自分の発言に対ししっかりと応答してくれた。「俺も関東に出てしまった以上、これから会える機会も減っていくだろうから…」という旨のことを言った時、「そんなことないよ、福岡に帰ったらみんなでご飯行こうよ」と言ってくれたのには、胸を締め付けるものがあった。

そして本当に可愛かった。クールっぽいところがある彼女が動揺しているのを見て、こちらまで動揺しそうになった。あれが演技だとすれば相当な腕前だろう、だからこそ見惚れてしまった。彼女の所作に虚構らしきを見出すことはなく、生身の姿がそこにはあったように思えた。それが可愛かった。最後握手して、彼女の手の白さ、小ささ、温かさを知った時、彼女は確かに実在していることを実感し、同時に、ああ女の子だなと、感じてしまった。

何と言われようが、彼女は優しかったし可愛かった。結局、これに尽きる。

 

 

さあ、この旅の総括に立ち返ろう。この旅は、今思うと同窓会を前に景気をつけるという部分が強かった。もし、こういう感情にとらわれていなければ、冬山に行こうとは一生ならなかった気がする。冬山にせよ同窓会の件にせよ、かなり無理はあったがそれでも一定の爪痕は残すことが出来た。これは今になってみれば非常に大きな自信になった。よほどのことではへこたれないし死なない気がしている。そして、この年になってやっと、人生が己のものであるという感覚を得ることが出来た。

山に関して限定して言うと、その後も順調にのめり込んでいった。2月は丹沢の表尾根経由で塔ノ岳に行き、その翌週に部員を誘って相模湖駅から高尾山に登り、さらにその翌週には同期と二人で秩父・伊豆ヶ岳に行った。3月は帰省ついでに伊豆ヶ岳の同期とで九重(降雪で坊がつるで一泊の後撤退)と由布岳に行き、その後一人で耶馬渓、関東に戻ってから馬鹿尾根で塔ノ岳に行った。コロナ報道もどこ吹く風やら、4月は那須三山に奥多摩の大岳・御嶽縦走、五月に帰省してからは車校との折り合いをつけながら宝満若杉縦走を二回、六月には満開のミヤマキリシマを眺めながら九重連山、夏休みには地元の悪友と英彦山に行き久々に酒を交わした。

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ヤマキリシマ咲き乱れる平治岳から眺める坊がつる。正面右手はに三俣山、左手に中岳


九月末に関東に戻ると、その足で上高地に向かい、横尾・涸沢を経由して涸沢岳へピストンした。(二泊三日)奥穂に向かっても良かったとも思うが、諦めた。しかし悔いは
なかった。ガスで景色はクソだったが、久々に穂高の縦走路に立つと去年の夏合宿の思い出が一気にきて、いろんなことが頭をよぎった。夏合宿の槍穂高は先輩に連れてもらったの感が強かったが、今こうして3110mの山頂の標を見ていると、自力でここまで来れたことが嬉しかった。上高地に下山後はバスや電車を乗り継いで土合まで行き駅寝、翌日に巌剛新道・西黒尾根を経由して9カ月半ぶりくらいに谷川・トマノ耳の頂に立った。その後、オキノ耳、一ノ倉岳、茂倉岳と進んで吾策新道で土樽駅まで下った。

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10月1日、涸沢。北穂谷を望む。

 

そして今、一個上の先輩から指名を受け、うちのワンゲルの次期主将になろうとしている。入部時点では誰一人私が主将をやるとは思っていなかっただろうし、私もあり得ないことだとは思っていたことだが、こうなってしまった。今年はコロナで部としての活動ができないというのもあり、個人でバリバリ山に行っている私に白羽の矢が立った格好であろう。

もし去年の11月だろうか、石鎚に行こうと思い立っていなかったら、どうなっていたのだろうか。ここまでバリバリ山に行くこともなかっただろうし、山に対する情熱みたいなものも薄れていたに違いない。あるいは一連の冬山で限界ギリギリを攻めることと自信の味を知ったのだろうから、冬山の経験がなければ少なくとも主将職までは拒否していただろう。今は、主将を全うしようという思いもあるし、まだ正式には決まってないが、他の主力メンバーが是認すれば多分私が主将になるだろう。

時の流れの速さとその予測不可能性に驚くばかりだが、来年は主将として部を盛り立てていきたい。昔から一人遊びばかりでリーダー経験は皆無だが、それでも旅の経験値はそこら辺の連中には負ける気がしないし、上手いごとやっていきたい。まあ駅寝とか野宿はやりたい奴が勝手にコソコソやってればい良いというスタンスなので、強制は絶対にしないので、そこは安心してほしい(笑)。部という組織で動くことで為せるような体験を、同期や後輩に与えたいと思っている。

 

このブログも一旦この辺で閉じよう。暇があれば、上に書いた今年(2020年)の山の記録や、山には関係ないが一年時代の純粋な鉄道旅についても言及したいと思う。ひとまず、こんな読みづらいブログに付き合っていただいた読者の皆様、ありがとうございました。

国内ひとり西遊記 ④砂の鏡

 ロープウェイ山麓駅がある集落は実に鄙びていた。バス停の真向かいに旅館があるが、廃業しているような雰囲気があり、その看板には「団体様のご宿泊も承ります」との趣旨の文言があって、時代の流れを感じた。多分、この辺はロープウェイも含めて、バブル前に開発されたのだろう。そんな気がした。また石鎚を訪ねたとき、それが何年後になるかは分からないが、ここの景色もまた違ったものになるだろう。そんなことを考えながら、西之川からやってきた伊予西条駅行のバスに乗り込んだ。例のお母さんと年長さんとはバス停では少し話していたが、バスでは別々の席に座った。バスが動き始めると、特に喋るでもなく、相変わらず霧に包まれた、水墨画のような山川の車窓に目を遣った。

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今回の石鎚登山を象徴するような空模様だった



 伊予西条に着いた。30分程度の暇時間の後、松山に向かうことにしていた。取り敢えず、駅前のローソンに入り、Lチキを買って下界のささやかな悦びを噛みしめた。同時に、無地の年賀状を10枚買った。出そうとは思っていた反面、石鎚で仮に事をやらかした場合、実在しない人物から年賀状が届く、という事態を避けたかったから、まったく放置していた。もっとも、先に書くだけ書いておいて、石鎚から帰ったのちに投函すれば良かっただけの話でもあるのだが。ともあれ、駅付近の観光案内所にも寄って石鎚山がバックになったポストカードも数枚買った。これは、うちの婆さんとか実家に送る用にしよう。

 伊予西条からの松山行はよく見たら一両だった。やらかした。二両だと思って少しゆっくりめに行動していたから、発車5分前に乗ったって座れなさそうな気がした。少し癪だと思いつつ跨線橋を渡って乗り込んだ。一瞥しただけでまずまずの混雑と分かり、立ち客はいないけれど、座席はほぼ埋まっていた。ため息をつこうとすると、見知った顔が二つあった。例のお母さんと年長さんだった。彼女も私に気づくと、微笑を浮かべて手招きをしてきた。聞けば、私のために広めに腰かけて私の着席スペースを確保してくれていたらしい。GJすぎんか、これ。さらに、彼女はコンビニ袋を差し出して、

「あなたの旅もまだまだでしょう。良かったらどうぞ」と言ってきた。

 やや面喰いつつも、中身を見てみると、幼児向けであろうか、三本パックで売ってそうな150㎖くらいのりんごジュースと、魚肉ソーセージが数本、それにキットカットみたいな軽めのお菓子が数個入っていた。多分、もともと息子さん向けに買っていたものを少し私に流用してくれたのだろう。

この際腹に溜まる溜まらないははどうでも良かった。たしかに昨晩、西条から松山に行ってフェリーで呉に行って…という話をしていたにせよ、私のためにわざわざここまでしてくれたことが嬉しかった。今までの私なら大変恐れ多いとか言って受取を拒否していそうなものだが、今更断る理由もなければその必要もない。すべきことはただ一つである。

「あざます!大切にいただきます!」と謝意を伝えた。

 

 彼女とはしばし歓談を続けていたが、今治でお別れとなった。24時間持たない仲であったが、非常にお世話になった。最後、ぶっきらぼう気味だった年長さんが、たどたどしくも、「おにいちゃん、またね」と言ってくれたのがかわいらしかった。列車が発車するまでホームにたたずんでくれていた彼らに、窓越しから手を振って応えた。列車は今治の街を抜け、どんよりとした瀬戸内海のそばを走り抜けていた。

 

 正午すぎ、松山に着いた。呉行のフェリーに乗るには、あと一時間ほどしかなかった。この時点で松山城や況や道後温泉はカットである。だから松山らしい飯を食らうか、と思ったが、ここで持ち前の守銭奴っぷりを発揮し、飯には1000円もかけられんと自主規制をかけた結果、駅前に適当な店を見出せなかった。あげくに、駅の南側にバッティングセンターを発見し、迷わず入った。別に元・野球部でもないしバッティングフォームも無茶苦茶なのだが、なぜかバッセン通いがやめられないのである。地元には自宅から徒歩10分圏内にあったから良いものの、大学にはその半径5キロ圏内すらない始末なので欲求不満がたまっていた。ここのバッセンは四階部分がバッセンになっているが、県庁所在駅の横で1ゲーム200円かつ20球程度ってのは普通に安い。調子に乗って3ゲームもプレイした。同時に、コンビニ飯が確定した。

 

 大して時間もないので、郵便局に行って年賀状を消化することにした。地図を見ると松山駅からの大通りを東に進むとすぐそこには大手町だった。その大手町の郵便局に行くことにしたのだが、これは楽しみが増えることになりそうだ。大手町はもう少し松山駅から離れていたと勝手に思っていたが、路面電車松山駅の隣だった。何だ、余裕で行けるじゃないか。少し嬉しくなりながら、駅からの目抜き通りを下った。

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大手町のダイヤモンド・クロス

 これが大手町である。正確には大手町駅と大手町電停と言うべきか。見ての通り、私鉄と路面電車が直交していて、路面電車が私鉄電車の発車を待っているようにも見える。列車が列車の発車を待って踏切で停まる、いわゆるダイヤモンド・クロスであり、これが松山・大手町の魅力だ。私鉄電車(高浜線)も路面電車も、どちらも伊予電鉄の車両だからこそ、直交するようなダイヤが組めるのだろう。昭和の時代には阪急の西宮北口駅や福岡・西鉄薬院駅のように、ダイヤモンド・クロスは全国で散見されたが、令和の世となって現存するのは大手町だけだ。高浜線の本数もそれなりに多いため、10分くらい待てば電車と電車の交差は見られる。歩道には、カメラを構えた同業者が散見された。

 まあ、私からすれば、どうしても見たいというような代物ではないけれど、それでも小学校時代から存在を認知していたものをこうやって自分の足で見に行くのも、感慨深い。純粋な乗り鉄旅じゃなくて登山帰りに大手町に寄るというのは、昔の私からすれば予想外であるが。何というか、大学に入って、今まで雑誌や書籍でしか知りえなかった全国各地に旅をするのは、この上ない幸せだと思う。今日もまた、その幸せの一かけらを手にすることができた、そんな心持である。

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高浜駅

 大手町の郵便局で、適当な文句を拵えて婆さん、実家、親戚宛の年賀状を仕上げていると、潮時だった。近くのセブンで軽く飯を買うと、高浜線の電車に乗った。発車すると、松山駅方面の路面電車が停まってくれているのを尻目に、列車は北進した。しばらくすると瀬戸内海の横を走って、終点の高浜に着く。海辺の小さな終着駅というに相応しいこの駅は、昔ながらの木造駅舎が残っていて、舎内の売店がキオスクみたいに大手コンビニに毒されていなかったのが好印象だった。高浜からはバスで五分近く揺られていると、松山観光港に着く。ここから、呉・広島へのフェリーや高速船が出ている。

 学割で呉までで発券してもらい、少し時間が余ったので弁当を食べ、売店を見て回った。すると、目の前に今治タオルが陳列されていた。値段は1500円ほど。今までの私なら見向きもしなかっただろうが、今回はちょっと立ち止まってしまった。バイトもしているし、今の私ならそこまで気にならない値段だ。むろん私が使うわけでもない。しかし。買ってよいものか。悩んだ。色んな可能性、リスクを考えた。結局、買わずに通り過ぎた。やはり買っておくべきだったと後悔し始めたとき、既に船は四国の大陸から離岸していた。昨日から相変わらず、霧が裾野に停滞し、晴れることはなかった。

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瀬戸内海汽船のフェリー。松山観光港から呉港を経由し広島宇品港に至る。

 

 

 呑気にデッキで佇んでいたため、完全に座席の確保を忘れていた。同じ中距離フェリーでも、青函フェリーの深夜便のノリでダラダラしていたから、かなり痛い目に遭った。まあ年末の繁忙期だし(12/30)人が多いのは予想していたが、しまなみ海道があるから大丈夫っしょって思っていたのがまずかった。多分青函みたいにドライバー室がないのだ。さもなくば、雑魚寝スペースが一般客室ゾーンにあるはずがない。それに、家族連れが多くよく言えば賑やかなのだが、子供たちがいる場所にこんな大荷物背負って入る度胸もない。

当時の私の最大の懸案事項は、スマホ・及びモバイルバッテリーの充電だった。昨晩の白石旅館でやったとはいえ、特にスマホに関しては心許ない。当然ながら、プラグがある座席は須らく埋まっている。プラグがない席は空きが見られるが、ザックという大荷物の管理もあって目を離すわけにはいかない。かと言って座席付近の通路は広いわけでもなく、そこにザックを置けば往来に支障を来す。

こんな感じで右往左往していると、最適解を見つけた。売店があるのだが、その近くにある椅子とテーブルがあり、椅子の真向かいに一人座っているが、もう一方には誰も座っていない。うまく置けばザックも邪魔にならないし、コンセントも近い。相席の格好にはなるし売店の呼び出し等でうるさいから眠れないけれど、まだマシだ。軽く一声かけた後、ゆっくり腰を下ろし、一息ついた。

 

場所としてははやり微妙だった。売店に近いから眠れる筈もなく、また景色を楽しむにも微妙だった。じゃあ、手を動かすかってことで、〆切の一カ月前から提示されているのにその一週間前からしか手を付けない期末レポートのように、腫物のように忌避してきた年賀状の作成に取り掛かった。

年賀状にしても、最初はネットプリントしてもらおうと思った。11月ごろスマホ片手に軽く見積をとったが、一発目のサイトでは、で最小単位が30枚以上、早割適用で30枚¥3,000~4,000(具体的な数字はうろ覚え)とかで、相場はそんなもんなんかと絶句した。他をあたったが、似たようなものであった。そう思うと、親父やお袋宛の年賀状で子供との家族写真を載っけている方々は、相当金をかけてんだなあと感心するが。しかし、学生にこの額はキツイ。それに相手もどうせ同年輩の学生ばっかなので、そんなに金をかけることでもない。というわけで、最低限の仕事を為せばよいのだと割り切って、wordファイルで登頂したときの写真を7枚ほど貼っつけただけのPDFを作り、それをカラーでプリントアウトしたうえで、その写真を無地の年賀状に貼っつけるという手法を取った。これでいいのだ。

取り敢えず写真は槍ヶ岳編と谷川岳編を用意した。夏合宿で世話を焼いたC隊のパーティーの先輩には槍ヶ岳山頂でのC隊の登頂写真が一番だが、冬山の件で色々世話になった先代の主将には谷川岳の方が良かろう、的な感じで一人一人年賀状を割り振っていく。それが終わると、チョキチョキ切ってはペタペタくっつける手作業を延々と繰り返す。そして、部内のメンバー宛のやつには内容が被らないよう頭をひねり、まず主将宛から取り組んだ。

 

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フェリーから見た呉の街

そんなこんなでペンを走らせていると、まもなく呉港に到着しますとのアナウンス。窓に目を遣ると、鼠色の巨大な物体が見えた。自衛隊の艦船だろうか。荷物を背負ってデッキ付近に立つと、自衛隊の艦船だけでなく、巨大なタンカーやクレーンが見えた。これが軍都呉であろうか、という威圧感があった。呉線には夏に乗り通したとはいえ、こんな景色が広がっているとは知らなかった。海上から街を見渡すという構図は、鉄道旅一辺倒な私には斬新だった。ただただ、呉の街の方を、食い入るように見つめていた。

 

呉駅前の郵便局で年賀状を少し投函すると、安芸路ライナーに乗って広島に向かう。広島では40分ほどの待ちがあった。取り敢えず、立ち食いうどん屋に行ってかき揚げ&ちくわ天で腹ごしらえし、コンビニで翌朝の飯を調達する。一通り準備が整ったので、個人的に広島駅一の愉しいゾーンに行った。それは、広島駅一番線である。

 

 広島駅の一番線。今でこそ広島駅も橋上駅となったが、私が初めて一人で広島で下車した小5の夏、在来線の駅舎・主要改札口は一番線にあった。あの時はただ駅スタンプを求めて下車しただけだと思うが、その時に流れた接近メロディがかなり頭に残った。その後も、大阪の叔母を訪ねて何度か広島を訪ねたときも、このメロディを聞きに一番線を訪ねた。中一の秋、叔母は亡くなりそれっきり18切符とも無縁の生活となり、広島も遠くなってしまったが、中学の卒業旅行で再び18切符が与えられると、中学の友人と二人で広島に来た。高校の卒業旅行はそいつを含めた三人で三江線乗りつぶしだったが、その時も広島に来て皆でお好み焼きを食った。そんな思い出の地である広島にあって、この広島駅1番線のメロディはそれを聞きに行くだけの価値があった。

 後で知ったことだが、そのメロディの原曲は「姫神」の『砂の鏡』というらしい。「姫神」はテクノ系音楽と東北の民俗音楽を融合させた楽曲を提供するアーティストである(岩手に姫神山という山があり、そこから名を取ったらしい)。それと、実はこのメロディ、五番線でも聞くことが出来るのだが、まあ細かいことはどうでも良い。この『砂の鏡』のメロディは、どこか人生の流れを感じさせる深みがある。それは、山陽が青春時代の思い出という私の事情があるにしても、やはりそう感じる。人だけでなく、車両も駅舎も街も色々全て変わってしまったけれど、それでもこのメロディを聞くと、小・中時代から変わってない事柄の方が頭に浮かぶ。今日もまたこうして思い出の一番線に立って、かつての旅の思い出に浸りつつ、この『砂の鏡』のメロディを聞いて不易流行を感じる、これが私の広島駅の愉しみ方である。気づけば岩国方面の列車が接近して、所謂「味の素チャイム」の後、例の『砂の鏡』メロディが流れる。これだ。これを聴くためだけに広島に来たとさえ思う。石鎚で下手すれば死んでもおかしくなかったと思うと、本当に聴けてよかったなと思う。

 

 名残惜しさも相半ばしながら、九番線に向かった。これまた高校の卒業旅行以来の芸備線だ。快速三次ライナーに乗って三次を目指す。あの時は夕食のお好み焼き屋探しに時間を食って、20時発の三次ライナーに乗り損ねて一時的に険悪なムードになったが、それもまた懐かしい。想像通り混んでいたが、下深川を過ぎるとガラガラで余裕だった。芸備線はあの旅の後の7月、西日本豪雨で被災して橋梁が流失、復旧に一年以上を要した。実際この旅も、復旧から三カ月も経っていなかった。見づらい車窓の中にも川が近いのを感じる。旅の範囲が広がるにつれ、旅した地域・路線が被災するという事態になりがちだから、今こうして旅ができるのも必然ではないんだなと改めて思う。

 三次に着いた。三江線が無くなった今、二面三線の構内も余剰であろう。三江線の時は駅から15分ほどのホテルに投宿したが、今日はまだ旅が続く。三次ライナーの横に停まっていた備後落合行に乗った。高校生が数名と老婆が二名ほどいた。そうは言っても、だんだん減っていくのは目に見えていて、備後西城で一人になった。まあその方が後々都合が良い。車窓から駅舎をチラチラ眺めつつ、年賀状に筆を走らせた。

 

 備後落合に着いた。察しの良い方もいらっしゃるかと思うが、まあ今日も駅寝である。自分でもブログに堂々と駅寝しましたとか書くべきではないと思うし、駅寝の害悪性も理解しているつもりだが、駅寝してでも備後落合には来たかった。ここは芸備線木次線の乗換駅だが、時刻表を見ても察しがつくように、かなり閑散としている。芸備線の新見方面と木次線は一日3往復、芸備線の三次方面も一日五往復という有様だ。かつて芸備線木次線は山陽と山陰を結ぶ陰陽連絡線としての役割を期待されていたが、中国山地の山間を縫うような路線の線形上、高速化には向かなかったため、陰陽連絡線はもっぱら倉敷~新見~伯耆大山(米子)がメインとなって、両線はただのローカル線に転落した。それに伴い、かつては有人駅だった時代もあるが、今はただの無人駅と化し、秘境駅と呼ぶ声もある。そうは言っても、構内は比較的広く、かつての遺構も数多く残っている駅としても知られている。

 

 ワンマンだったから、運転手に18きっぷを見せると、齢55はありそうな運転手は特に何も言わず返してくれた。取り敢えず駅舎というか待合室に入って、観察を加える。ここで地元の方がいらしたら、間違いなく不審者扱いだろう。場所が場所なだけに警察が急行することもないだろうが、旅先で厄介ごとを起こすのも馬鹿らしい。とにかく、駅寝の時は、人が周りにいないことが望ましい。

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備後落合駅駅舎内部。椅子備え付けの座布団もポイントが高い

 にしても、この備後落合は、無人駅にあってはかなり整備されている方である。駅ノートの書き込みもそれなりに多く、私も恒例のカキコをする。個人的にビックリしたのは、駅の歴史や遺構についてを説明するパンフレットが置かれていた点だ。最近、町おこしの一環で秘境駅を積極的に観光資源として使おうという向きがあるが、わざわざパンフレットまで置くとは。しかも、そのパンフレットの内容もかなり詳細だった。駅構内の掃除も行き届いており、愛されている駅なんだなと感じた。見ていて非常に気分の良い駅だった。

 ホームに出た。すると、乗ってきた備後落合行のキハ120が停車していた。駅舎の東側は明るく光っており、さっきの運転手がいるのだろう。今時、夜間に停留させるパターンは大分減っている(主要駅まで回送する場合が多い)と聞くので、中々珍しいものに立ち会ったものだ。ホームなどの観察を終えたし、寝ても良いのだが、まだ早い。そこで、散歩に出かけることにした。そうだ、確かこの辺にはドライブインおちあいってのがあって、おでんそばという名物があったはずだ。まあ、どうせこんな田舎でこんな時間までやってるとは到底思えないが、暇潰しには悪くはない。21時半、駅を出た。

 

 需要がないのだろう。駅がある高台を下りたところの国道には、街灯が明らかに少ない。石鎚登山ではまともに使わなかったヘッドライトを使い、存在を車に認知させる。当然アホみたいなスピードで飛ばしてくるし歩道もないから、多少の自衛は必要だ。もっともドライバーからすれば、こんな時間にこんな場所でヘッドライトを点けて歩く人間がいる方がよっぽどホラーであろうが。

 しかし場所柄、車はほとんど来ない。そうすると、ヘッドライトを点ける意味も大してない。暗い方がなんか落ち着くことに気が付いたのだ。視力にも自信があるし、車が近づいても音とヘッドライトで自分との距離は大抵読める。それに、ふっと顔を上げると、星空が綺麗に映っていた。多少雲がかかっている箇所は散見されるが、それでも空気の乾燥と山中の光のなさは、星々をより鮮明に映し出していた。こうなっては、ヘッドライトなぞ邪魔でしかない。ポッケにしまい、時たま立ち止まりながら無数の星々を眺めた。

 冬の星座の知識がないもので、こういう時につまらないよなと自省する。星の知識と言えば、そういえば地学基礎で超新星爆発とかやったものだ。あの時の知識によれば、恒星はやがて爆発を起こし、場合によっては白色矮星になって消える、と習った筈だ。だが、その恒星と地球との距離の差と光速とのギャップから、爆発後も輝き続けるという話もやった。そうすると、今視界にある星々は実在しているのだろうか。あるいは、あの輝きこそ、死んだ星の最後の輝きなのかもしれない。そんなことを考えていると、小椋佳の『俺たちの旅』の一節が頭に浮かんだ。

〽夢の夕陽はコバルト色した空と海 交わってただ遠い果て

 輝いたという記憶だけでほんの小さな一番星に 追われて消えるものなのです

 

 ドライブインおちあいは、駅から15分ほどだっただろうか。当然やってるどころか明かり一つ点いていなかった。自販機は動いているし、多分廃業まではいってない。んで目的は果たしたことだし、帰るかと思うと、ドライブインの中から人影が現れた。えっ⁉て感じだったが、やはり人だった。管理人なのかもしれない。向こうも私に気が付いたようだ。かと言って不審がる様子もなく、そっけなく顔を背けた。まあ、例えばバイク乗りが自販機のために立ち寄るみたいなことはあり得そうだ。吸い寄せられるように自販機に近寄り、缶コーヒーを買っていた。

駅に戻った。駅舎東側の明かりは消えていて、あの運転手さんも寝たことだろう。私はというと、さっき買ったコーヒーを片手に日記や年賀状を仕上げていた。23時だっただろうか、駅舎の明かりが突然すべて消えた。なるほど、時間を区切って自動消灯させているらしい。いっときビックリしたが、もう潮時だろう。従容として寝ることにした。

 

 

 駅寝に限らず、まともな布団やベッド以外で寝ると、大抵1~2時間に一回くらいの割合で目が覚める。それを数回繰り返して寝た気分になる、というのがいつものパターンだ。今日もそんなこんなで4時20分になった。列車は6時半くらいなのであと一時間は休める。そう思ってまた寝始めた。4時半になって、突然待合室内の明かりが点いた。なるほど、消灯・点灯ともに時間で区切ってあるのか。しかし、まだ眠いぞ!寝させてくれ、と無理矢理目をつぶった。しかし、いきなりの点灯に頭が痛く、列車的にも6時43分発を逃す勢いで寝そうだったので、5時で起きた。消化不良の感は否めないが、ここはリスクを取った。

 さすがにカップ麺も飽きるので、広島駅で買ったおにぎりを食おうとするが、…一個しかない。そうだ、備後落合に来るまでに三個の内二個をつまみ食いしたんだわ…お湯の用意はあったとはいえ、まあ残ってるっしょと高をくくっていたカップ麺の方がなかった。一応、わかめスープの素はあったため腹は一応膨れるが、持たないだろう。そのとき、昨日松山行電車でお母さんからもらった魚肉ソーセージの存在に気が付いた。これなら、噛むから多少腹にも溜まるはずだ。りんごジュースも旨い。この時に、あのお母さんのGJっぷりを改めて感じた。

 

 駅舎に広げた寝袋やマットを片付けて、ザックにつめていると、6時を越えていた。荷物をホームに運び出し、改めて観察をしていると、昨日の運転手さんがいた。三次まで引き返すようだ。私の顔を見るや、昨日とは打って変わって非常ににやけた感じで、

「あっ、昨日のお客さんじゃないですか。どうせ駅寝したんでしょ?たまにいるとは聞くけど、久々だなあ。八年ぶりだよ。にしてもすごい荷物だね。比婆山でも登るの?」

「いや、もう登ってきたんですよ。愛媛の石鎚に行って今日はこっちに来ました。でもいつか、比婆山も登ってみたいですね」

 比婆山はこのあたりの名山だ。備後落合の三次よりの隣駅が比婆山でもある。

「それでも、今年はまだいいよ。この辺も例年この時期は雪が積もって大分寒いからね。やっぱ今年は暖冬だな」

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6:37AM 西日本の夜明は遅い。左が三次行、右が新見行

 そんなこんなで、大学で上京した息子さんの話や、例年のこの辺の天気の話で盛り上がった。すると、向かい側のホームに新見からの列車が来た。ここで折り返してで再び新見に向かう。私が乗るのもこの新見行だ。三次行の運転手と別れ、新見行の運転手と少し話す。彼も私を駅寝だと看破し、若干引き気味だった。新見からの列車には明らかに鉄ヲタみたいな若い男が乗っていて、なんでここに乗客がいるんだ見たいな目で、凝視してきた。気持ちは大いに理解できるのだが。彼は三次行に乗り換えた。多分、ただの乗り鉄だろう。

 6:43。新見行は夜の闇と霧に包まれた備後落合駅から動き出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国内ひとり西遊記 ③石鎚山(下) 天狗岳

 

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弥山側から見た天狗岳への稜線

 


夜明峠の付近は開けた地形で、道の脇に寄れるほどの道幅があったのは幸いだった。痛みだした足を思って、一時停止することにした。この痛み、丹沢の大倉尾根で経験した痛みと同じ感触だった。しばらく休むことにした。

 

その間、追いコンの時に先代の主将とした雑談を思い出していた。その日に行った丹沢塔ノ岳の話になり、積雪状況などを聞かれた。そののち、花立小屋を出てから、もしかして人生で初めての肉離れを起こしたことを話した。すると主将は、

 「勿論個人差はあるんだろうけど、一回肉離れを起こすと、肉離れしやすくなることもあつからね。ほら、Sだってそうだろ?笑」

Sとは、私のワンゲルの同期である。初っ端の新錬の丹沢山にて肉離れを起こし、途中撤退。その後の新錬では、漢方薬を携帯するようになったのだが(50錠6,000円とかいうよく分からんぼったくりみたいな価格も当然ネタにされた)、肝心の鳳凰三山での夏合宿で漢方薬を忘れ、やはり肉離れを起こし途中撤退。その他様々なしょうもないやらかしをしでかしており、同期内でも有数のネタ枠(戦犯)である。

 「まあ、今のは冗談だけどw。まあお前も本格的に縦走してた時期から大分ブランクがあいているだろうし、その辺が今日の(塔ノ岳)で肉離れを起こした一因かもね。」

 

 

改めて思い返すに、たしかに、むべなることだと思った。そして、先輩が正しいとすれば、肉離れをしやすい状況下で冬山に行くことになる。それは怖かった。怖かったから、できる限りのトレーニングはしたつもりだった。通学時間やバイトの時間もあり、うまく時間が取れないことも多々あったが、そもそもそんなに体力がある方ではなかったが、それでも、週に20㎞程度は走ることを目標に、大学周辺の坂を走った。谷川だって色々あったけど、二日かけて登頂したじゃないか。ケガもなく。すべては、西日本の頂を目指して。ある程度自信を持ってここまで来たというのに、答えはこれなのか。

多分、肉離れを起こした原因はさっきの試しの鎖にある。あそこで思った以上に力み、足に負担をかけすぎたのが原因だろう。大体、山頂に立つのが目標じゃなかったのかよ。なんで途中でしなくてもいい寄り道をして、体力も消耗して。しかも、時間的にも大分押しているじゃないか。馬鹿なことをしてしまった…

……何だかんだここは愛媛だ。今引き返せば、松山に19時ごろには着くだろう。そうすれば、松山港を出る小倉行の夜行フェリーにも乗れ、明日の今頃には福岡の実家にも帰れるはずだ。家族、友人の顔が浮かんだ。年の瀬で忙しいだろうけど、ちゃんと迎えてはくれるだろう。それに、撤退は敗北だろうか。七月の新錬3で、南ア北岳直下の肩の小屋に泊まったとき、翌朝、先輩がすぐそこの山頂を無視してエスケープしたことが、OBの信頼を勝ち取ることに繋がり、執行代の株が上がったという話も思いだしていた。ここで事故ったらどうなる。すべてを自力救済で対処せねばなるまいが、そんな力量も装備もあるって果たして言えるのだろうか。仮にビバークとでもなれば、しかも風雪に襲われたら。冬山で遭難して生きて帰れるだろうか。大事故の兆候が見えていたのにそれを無視していくのは、なんとも愚かしいことではないか。撤退とて名誉ある撤退なのだぞ。しかし、しかし…

 

 

五分ほど一時休止していた。水をちょびちょび飲みつつ、行動食を食べながら、心を落ち着かせた。ザックをゆっくり持ち上げ、靴のつま先を南方に向けた。ここまで来たら、限界になるまでやろう。まだいける。そうだ、どうせ今日は旅館に泊まるのだ。時間もそこまで気にする必要もないではないか。爆弾が括り付けられているように感じる足を思って、歩幅を狭めるよう意識しながら登り続けた。

 

 

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休憩地点。簡易トイレや避難小屋もある。

しばらくして、分岐路が見えた。土小屋・面河渓方面だった。また、立派な鳥居も見えた。かつて二の鎖小屋という小屋があった地点である。一応幕営地になってて、トイレも置いてある主要地点である。多分この鳥居は、石鎚神社・頂上社の入口ということであろう。時間は12時55分。当初では、16時下山を見越して13時半撤退開始と決めていたから、ここは休まず行きたかったが、そんな自主規制取っ払ってしまえと、飯休憩を入れることにした。

我ながら、もう少し料理のレパートリーを増やさんといかんとは思うものの、やはりα米に頼りがちである。今日はモンベルのガーリック風味のリゾッタをいただくことにしたが、入れるお湯の基準線が見えづらく、倍近く入れてしまう。それでも、ちゃんと汁に味が出ていて、これはこれで旨い。飲み干すようにして平らげて、ふうっと息をつく。

すると、6人くらいのパーティが下山してきた。谷川と違ってこの山ではそもそもすれ違いすら少なかったし、大抵単独行者ばかりだったから、おやっと思った。それに、……若い。

これは、と思い話しかけてみた。聞けば、岡山大学の山岳部だそうだ。こちらも一通り自己紹介してどんな山に行ってるとかいう話をした。部員の顔を見ると、我々同様陰キャっぽい風貌で親近感を感じさせる人もいれば、髪を真っ赤に染めた人もいる。山岳サークルといえど、構成員の内容はうちとは毛色が全然違うものだから、面白いものだ。

 岡大の彼らは、他の登山者は中年夫婦のパーティ一組だけであること、これから出現する鉄網状の階段にアイゼンの刃が挟まって歩きづらかったことを教えてくれた。まあ頑張ってください、と残して成就社の方へ去って行った。彼らは親切だった。同時に、みんなで冬山ができる彼らが少し羨ましかった。まあ冬山はやらないと、新歓の段階で宣言していたのに勝手に行き始めたのだから、単独行にならざるを得ないのは必然なのだが。二の鎖小屋跡を出ようとすると、例の中年夫婦が降りてきた。軽く挨拶を交わし、写真を撮って貰った。やはり、セルフタイマーで撮るより画質が良い。

 

 ここから先は、鎖場が二つ連続する。小屋跡の前に一の鎖、小屋跡の先に二の鎖、三の鎖があるわけだ。無雪期ならそのすべてにアタックしていただろうが、さすがにスルーをかました。代わりに巻き道があるが、この巻き道というのも、もともと岩の斜面に沿うように金網の鉄階段がかけられたものであり、疲労感はないが、如何せん左手は崖だ。しかも、岡大山岳部が指摘したように、金網にアイゼンの刃が食ってしまう。いつバランスを崩すか分からないため、かなり慎重にならざるを得ない。

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アイゼンの刃を食う地獄の鉄階段。個人的には、踊り場の部分が最悪だった。

 

 私がなぜこんなに怖がるのかというと、実はここから滑落したと思われる遭難者の動画を、YouTubeで見たからである。当時、冬山の遭難に関していえば、ニコ生の主が富士山で滑落する事故があり、その滑落動画がYouTubeにでていたので、一応目を通していたのだが、その関連動画としてこの石鎚での遭難動画が出てきた。(興味がある方は、「【滑落事故~救助まで】 2018年3月 石鎚山登山」を参照されたい)状況からして、間違いなくこのあたりだろう。動画は2018年3月と思いっきり残雪期だし、状況が明らかに似ている。まあ装備は石鎚をやるにしては十分な装備を買いそろえたつもりだったし、慎重にやれば滑落しない自信はあった。登山道が斜面側だったのもあり幾分恐怖も和らいだ。しかし、アイゼンの刃が食うたびにヒヤヒヤが止まらない。下がスルーになっているから、アイゼンを付け直すたびに断崖が見えるのもまた(悪い意味で)ポイントが高かった。

 

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左手に石鎚山頂上荘

休憩地点から30分くらい歩いただろうか。左手に石積みが見えた。明らかに天然物じゃない、人工物だ。だとすると?少し歩くと、なんか新しめのでっかい建造物と階段。大学のAVルームに置いてあった深田久弥日本百名山の動画が古すぎて、そのイメージに引きずられ一瞬何だか分からなかったが、うん、頂上山荘だ!谷川岳肩の小屋同様、冬季休業しているけれど。石段を上がると小さな祠みたいなものがあり、その手前に「国定公園 四国霊峰 石鎚山」の看板。時計はおおむね二時を指していた。ついに来た。弥山だ!

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弥山山頂。奥に頂上社の拝殿

まあ、とんでもないガスに囲まれていて眺望どころではない。新錬二で行った金峰山よりも霧の程度は酷かった。それでも、石鎚神社の頂上社があるのでここでお参りをし、一応の目的は果たせたのだなと胸をなでおろす。ああ、これでこれまでの足跡に思いを馳せながら、色んな人を思い浮かべる。

まず、ワンゲルの部員一同。特に先代の主将、冬山に乗り気だった一個上・同期。北八ケ岳に誘ってくれた四年の先輩。行きつけの登山用品店の顔見知りの店員。(余談だが入部以来お世話になっていて、彼のアドバイスを受けてアイゼン・ピッケルを購入した。夏合宿では槍ヶ岳の山頂で遭遇。仲間と北鎌尾根を登攀していた模様。なお、冬山どこ行くのと聞かれ、石鎚と言うと、彼も夏に面河渓・土小屋から行っていたらしく、この辺のアドバイスも頂いた)東大駒場祭で会った神社研究会の学生。谷川岳ロープウェイで会った中年夫婦。吹田の友人。岡大山岳部の方々。思い返せば、一人旅と言えど、色んな人との出会い・交流があったものだ。

 

 

時計は二時を少し過ぎていた。普通ならここで引き返すというのが筋であろう。だが、この時の異常心理は、登山者なら当然の理性すら吹き飛ばしていた。私の中で次なる行先は成就社・白石旅館ではなく、天狗岳に書き換えらていた。重いザックは神社の祠の傍らに置いておき、弥山の積雪状況からピッケルも不要と判断した。主将の許可を得て部室から拝借したヘルメットを装着し、ポッケには最低限の行動食を入れ、防寒手袋を装着し、身一つで天狗岳への稜線へ向かった。

 

元々の計画では、天狗岳は行けそうだったら行く、くらいの気だったはずだ。それでも今回行ったのは、西日本最高峰に立ちたいという執念というかエゴ、そして旅館に泊まるという安心感だろう。四国にいて東京より日没が遅いというのも、計画が押してしまうことに躊躇を抱かせないには十分足りた。そして単独行であるからこそできた所業である。足も腹も首も視線も、ガスの中に隠蔽された天狗を向いていた。撤退の二文字すら頭に浮かばなかった。

多分この体験記をそっくりそのままヤマレコとかに投稿しようものなら、間違いなく叩かれる。こんな山行は登山の常識・流儀を逸脱していて危険極まりない、他の登山者が真似したら危ない。登山者として間違っている。そんなこと、天狗に向かう途中も分かっていた。この状況で天狗に行くのはあり得ない、というのは分かっていた。だがそれでも、体は東へ東へ、弥山から離れていく。

 

今こうして冷静になってパソコンで打ちながらあの頃を回想するにつけ、あの時私を天狗に突き動かしていたのは何か、と自問自答する。承認欲求が主因なのは間違いない。では誰に対するものか。当然、ワンゲルの部員に対して、という部分は無視できない。16人いる同期の中でも下から数えたほうが早いほど体力がなかったという劣等感から、抜き出たいという思いが生じるのは自然だろう。あるいは、かなり世話をかけた先輩に対し、俺ここまで行けるんですよ、的な誇示をしてみたかったといえば、そうかもしれない。

だが一番はやはり、地元のある知り合いに対してであろう。その人は友達の友達という関係ではあるものの、はて、友達と呼んで良いのだろうかと頭をひねるくらい、薄い関係で、当然お互いお互いのことをそんなには知らない。しかしいつしか、そういう関係を変えたいという思いが湧いて出た。それは遅すぎたことかもしれないが、それでもいいと思った。だから、目に見えるような事業をしてみたかった。その人は気づいていないし私のことなど気にかけてすらいないかもしれないが、それでもその人の目を引くような大事業をしてみたかった。だから、天狗には行きたかった。

結局のところ、こういう恋煩いがなければ、こんなことをしてはいなかっただろう。冬山にすら行ってないかもしれない。つまるところ、自惚れと虚栄心だけが私を突き動かしていたと言って間違いなかろう。もっともこれは、全登山者に当てはまりそうなことではあるけれど。ヤマヤというのは、自分でも少し難しいと思う山に登り登頂することで、己に自信を持ち、そこに己の価値と生きる意味を見出す人種のことを言うのだろう。そういう意味では、この一連の冬山旅というのは、先輩に引導してもらうだけの一介のワンゲル部員からヤマヤに移行していった期間に相当していたと思う。

 

 

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帰り際に撮った北壁。そりゃ、北壁側は歩きたくない。


 

にしても、天狗への稜線は、恐怖感がこれまでとはけた違いである。そもそも山と高原地図ですら破線扱いな時点で察しなのだが、ただの岩の道だ。部分的には鎖があったが、全区間ではないし、雪に埋もれている箇所も散見された。そして岩にも積雪があったり、厄介なのは岩の凹凸部分が氷化していて、足場にもならないし手で掴むこともできない。そのため、迂回する必要も出てくる。そのうえ、登山道それ自体がナイフリッジの上を通っているため、両側がとんでもない崖になっている。当然遮るものはないから、容赦なく横風が襲ってくる。幸い降雪はないが、それでも風がいつもより強く感じた。ガスのせいで崖の最下部が全く見通せないし、落ちたら即死であろうと思った。濃い霧が、あちらの世界への入口に思われてならなかった。救助を呼べてもこのガスでは誰も助けには来てくれないに違いない。いずれにせよ、やらかしたらそれで全てが終わると思った。

 ザックは勿論のこと、ピッケルも弥山にデポしたのは正解だった。案の定積雪もないし、手で確保を取った方が安全だった。ただ、やはり氷の付いた岩場に足をかける度胸はなく、迂回をかまさざるを得ない。アイゼン歩行の技術もまだまだである。断崖絶壁の北壁はそういう悪路気味なきらいがあった。そうすると、だんだん南壁に近づくのだけれども、南面は南壁で岩の下の方に積雪があって、それがどうも雪庇くさい。どっちに行こうが、地獄は地獄だった。

 それでも、北壁側の岩の方が掴みやすかった。だから原則として北壁を伝うことにした。雪庇を踏み抜いて滑落という死に方が間抜けに思われたのもあった。もう弥山から10分ほど経っていただろうか。前方の霧の中からわずかに尖った岩の塊が見えたような気がした。あれがそれか?、と少し興奮した時だった。北面を伝っていた登山道は南壁の方に下っているように見えた。足場を目視で見つけようとしても、北壁を通れる自信がない。これは南壁に下るしかなかった。

 だが。南壁に行っても使えそうな岩場はなかなか見つけられない。一丁前に岩場岩場と連呼しているが、所詮は本格的登山を始めて一年足らず。穂高とかいろんな経験は積ましてもらったが、クライミング技術としては素人の平均以上くらいの程度でしかない。当然やれるルートには限界があるわけで、安全だと思えるルートを探すしかない。

 

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左手が北壁、右手が南壁。天狗への稜線は、基本的に南壁の方に傾いている。そして、このあたりから下方に下っていったように思う。



 だがここで、へまをやった。南壁の下方に下ったのは良いが、どうも適切な足場が見つけられず上方に戻ろうとした。ところが、思った以上に使える足場が高くて、足が届きそうにない。もともと体が硬い人間だし、足を届かせようとして無理やり開脚して足を痛めたら帰れないし、バランスを崩して転倒・滑落という最悪なコンボが容易に想像された。ここはこの足場を使わないで上方に復帰するしかないと思った。だが、弥山(西)方向には険しい岩で復帰できそうもない。とすると天狗岳(東)方向で探すしかなかった。すると、今いる地点からちょっと東方向の下方に移動するとその先に無雪期の登山道らしき目印が見えた。これは、今の地点から少し下方に下りてそれからその登山道らしきを辿れば、上方に復帰できるかもしれない。だから下方に下りればいい。

 問題は下るべき下方部分に雪が積もっていたことだった。地形からして、どうも雪庇くさいように思われた。正直、あとになって冷静になって考えると、それが雪庇である根拠は特になく、思い込みによる部分は大きかったと思う。それでもその積雪の先には南壁の絶壁が見えていて、着地をミスったら死ぬのは間違いない。

 一旦冷静になることにした。ここを下りきれたら、多分天狗に行けるし、弥山に帰れる道を見つけられるかもしれない。逆に、この雪面が雪庇だったりあるいは滑落すれば間違いなく死ぬ。生物的にも。社会的にも。かと言って、ここで撤退するにしても、何らかのルートを見つけないと弥山にすら帰れない。ここで動かないという選択肢は存在しないのだ…

ここまで考えた末、この雪面に足をかけることに決めた。と言っても、雪面までまあまあ高さがあるので慎重に下りていく。まず、右足と両手でしっかり岩場に三点支持を保った状態で、そろりと左足を岩から離し、下方に動かす。今度は逆に、左足を固定して右足を下方に動かす。こうして両足が雪面に近づいたところで、両手で岩場を掴みながら、静かに左足を雪面に着ける。

 

果たして、雪面は左足が乗ったというのに、びくりともしない。重心をかけているにもかかわらずだ。よっしゃ!、と叫んだ。雪庇じゃない。これはれっきとした積雪だ!賭けに勝ったようだ。なんとなく、ここで死ぬ気がしなかった。ここを乗り越えることが出来たのだから、どうにかなるだろう。しばらくして上方に戻ると、北壁沿いを通ってもいけそうな気がした。さっきはビビって見つけられなかったが、通れないことはないようだ。帰りはこちら側を通ろう。

 

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天狗岳山頂

上方に戻って間もなく、小さな石造の灯篭があった。下には銀色の金属板に、天狗岳 1982m の文字。ついに、西日本で一番天に近いところにたどり着いた。時間は14時25分になっていた。弥山から30分近く経っていた。そんな時間の経過など、とうに頭から離れていた。相変わらずひどいガスで、奥深い四国の山並みを見下ろすことは叶わなかった。しかし、自力でここまでたどり着けたのは嬉しかった。山頂は想像以上に狭くて最小限の看板しかなく、その素朴さが良かった。何も見えない景色を見ながら、これまでの色んな出来事を軽く思い出しては苦笑する。長かったが、全ては今この時を味わうためにあったのだ。冬山に行くと決めて二カ月弱。形としてはかなり無茶苦茶だが、初志貫徹はすることが出来た。いま私は、西国でもっとも天に近い場所に立っているのだ。

 

 

達成感もひとしおだけれど、山頂にそう長居するものでもない。さあ、あとは帰るだけだ。下山時に事故は起こりやすいというから、怖いは怖い。しかし、弥山に帰れば、あとは大丈夫だと思った。弥山までが大一番であろう。帰るぞと、意気込み、到着後わずか二分で、天狗岳を後にした。

 先ほどの分岐地点に戻った。南壁沿いの下方ではなく、例の北壁沿いを慎重に通過する。鎖がない分一歩一歩に時間がかかる。思えば、大キレットの時、怖いは怖かったが、天気は晴朗で鎖も十分だったから、不思議と恐怖感はなかった。今回は状況がその逆だった。天気は最悪で鎖もない。景色の見え方は向こうが格段に良かったが、落ちたら死ぬのはどっちも同じだった。だとすれば、天狗岳稜線の方が大キレットより怖い。むしろ、この稜線を越えるために大キレットに行ったのではないかとさえ思われた。大キレットが石鎚の踏み台だったのかと思うと、贅沢なものだと苦笑する。それでも、大キレットを越えたからには、やれそうな気がした。あの時は渋滞気味で無理して飛ばした気もするけど、どうせ今はここには誰もいない。なら、時間をかけてでも慎重に進んだ方がいい。飛ばしても大キレットを無傷で通過できたのだから、慎重にやれば絶対大丈夫だと思った。とにかく、しっかりした足場や手の置き場を見極めながら、じっくり時間をかけて西へ西へと戻った。

 

 

14時50分。やっと弥山に着いた。一息ついた。試しの鎖の頂上で飲み残していたコーラを口に入れた。少量だったので炭酸は既に抜けていて、かったるいカラメル風味だけが口に残った。それすらもうまかった。相変わらず景色なんてものはないけれど、霧を見つめながらやり切ったという思いで満たされた。これで帰れる。思い残すことは何もない。やれる範囲でやり切った。計画が押しすぎていて、連絡係を頼んでいた先輩には怒られるだろうけど、それでも良かった。己の限界ギリギリまでやれるというのは、そう経験できるものでもなかろう。そして多分その知り合いにも会える。無事下山しきって、横浜に帰って、しばらくすれば成人式で地元に帰る。その時に顔を合わせることが出来るだろう。そん時はそん時である。

 

一通り写真を撮ったりして、弥山との別れを惜しむ。15時になろうとしていたころ、弥山を後にした。取り敢えず、早く下山しなければ、と思った。地元の場合、冬至では17時半には暗くなり始めていたはずだ。緯度的には本州では三原あたりだから、日没は五時くらいと推定されよう。正直八丁鞍部にさえつけば暗くてもどうにかなる自信はあった。ヘッドライトもあるし、歩いた感じ地形的にもそんなに大変ではない。取り敢えず、八丁鞍部17時を目安に歩き始めた。

例の鉄階段ゾーンに入った。ここでは、下りは崖側の階段を下ることになっているが、どうせ時間も時間だし、山の斜面側を利用した。ここで、岡大山岳部が言っていたアイゼン脱げますよ、の本当の意味を知ることになる。登りの時とは比べ物にならないほど、アイゼンが金網に食いついて、脱げる。20歩歩けた試しがないように思う。それくらいの頻度で脱げる。特段締め方が悪いわけではないし、その理由は判然としない。ともあれ、10回は履きなおした気がする。

そんなこんなで思った以上に時間がかかり、土小屋分岐付近へは40分もかかっていた。とりあえずこの段階で、先輩と宿の白石旅館に現在地点と予定到着時刻を電話しておいた。その後も軽快に歩く。夜明峠に戻ると、そういえば足を痛めたなあと思い出す。改めて振り返って弥山の方をみると、相変わらずひどいガスだったが、すこし晴れた気がした。北西方向の山なみには雲海が出来ていて、ただただ見入ってしまった。山と山の間に本当に湖が出来たように見えて、なんだか神秘的だった。

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雲海はこの辺で見つけたはずだが…やはり、写真にするとなんかへぼい。

夜明峠を過ぎて小股気味で歩くよう意識していると、試しの鎖の入り口の分岐が見えた。当然スルーして巻き道へ。狭くアップダウンはあったものの、通れば5分足らずで鎖場のところを通過していた。登りでもせいぜい10分だろう。1時間もかかったなんて大分苦労したんだな、と思った。

あとはひたすら樹林帯である。さっきの雲海みたいな景色もなく、黒い木陰で気分も上がらないので、心を無にして歩く。気づけば八丁鞍部だった。時間は16時57分とかで、まあ想定通りに行っていた。ここからはアイゼンを脱ぎ、ひたすら早歩きになった。融雪も大分進んでいて、歩きにくい。それでも、雪がないし木道部分は歩きやすかった。

そろそろ夕陽の残光も消えてしまいそうになっていた17時19分。やっと成就社から弥山に向かう時にくぐった門が見えた。やっと帰れた。一安心した。成就社で再度お参りをしたのち、今日の宿・白石旅館に入った。

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奥に常住屋白石旅館

 

思えば、自分の金で旅館に泊まるのは今回が初めてだ。体裁というのがよく分からない。取り敢えず、登山靴・ゲイタ―・アイゼンに付いた泥を軽く落としたのち、案内してもらった。旅館とは言うものの、当然実質は山小屋みたいなものであった。それでも、客が少なかったのか、少し広めの部屋に案内された。和室だったけど、布団の数からして10人くらいはゆうに寝れそうだった。風呂やトイレが共用だったのは仕方あるまい。腹は減ったが、電話するとき、念のため遅めの時間を言っていたため、料理はまだ用意できていない、と。そこで先に風呂に入っておくことにした。

思った通り、かけ流しとかいうことはなかった。ただ家庭用の浴槽のデカい版があっただけだった。どうやら、熱い湯と冷たい湯を交互に入れながら適温を作る仕組みになっていた。正直、リフォーム前の爺さん婆さん宅の風呂よりぼろかったが、これはこれで味があった。登山後の風呂というのは、今回はわざわざ四国まで行くという長旅の疲れもあってか、最高なものである。どばーんと浴槽に体を預け、ふうっ、と息をつく。これだけでも生きてる価値があるわ。派手な設備はないけれど、登山後の疲れを癒してくれるには十分だった。

風呂から上がると、料理が用意されていた。これだけでも、なんだか嬉しい。ブロガー的には、料理の写真一枚くらい撮っておくのが筋だろうが、食に飢えていた私は速攻で手を付けた。常住屋白石旅館のHPを訪ねれば分かるが、多分幻の岩茸付き定食だったと思う。もっとも、当の私はというと、本当は肉をいっぱい食いたいんじゃー!とか全く情趣を解さないことを考えていた。なんか精進料理みたいで正直物足りなさを感じていた。それでも、しっかり味わって食べると、なんというか滋味深い味わいで、たまにはこういう贅沢もアリだと思った。

と、言いつつも、この旅館の良かった点は、ご飯がおかわし放題だった点だ。漬物・ふりかけも充実していた。それはもう、20歳男子大学生、育ち盛り(?)、狂喜乱舞である。まあ、食品ロスになるか私の胃袋に入るかだけの違いである。遠慮なくご飯&漬物で腹を満たしていた。そのおかげで、上述の“精進料理”をゆっくり味わって楽しむことが出来た。

そんなこんなで食いまくっていたら、中年女性と6歳くらいの男の子が食事室に入ってきた。親子連れであろう。そいいえば、ロープウェイに乗った時、近くのスキー場がスキー開きとかでなんかイベントをやっていたのを思い出した。財布には、ロープウェイの山頂駅で貰った抽選権が入ったままだった。すると、女性の方が、

「あの、ここ失礼して大丈夫ですか?」 と聞いてきた。

「どうぞ、今日はスキー開きに行かれたんですか?」

「ええ、あなたは?もしかして山ですか?」

「はい、弥山の方まで。天狗岳にも行きましてね」

「すごいですね、まして一人で行くなんて。私にはできませんわ」

 

こんな感じで話が弾んだ。二人は私の向かい側に座っている。大学のワンゲル部員であることや、地元が福岡であることを話すと、彼女も福岡市内の女子高出身であることが分かり、さらに地元トークで話に花が咲いた。現在、松山で仕事をしているようで、四国に来てお子さんを授かったらしい。細かい事情を突っ込んでも仕方ないので、しばらくヤマの話、福岡の話とかで盛り上がった。

来年小学生になるという息子さんは、ひたすらテレビにかじりついて離れない。案の定お残しをしていて、お母さんに怒られている。そんな姿を見ていては昔の私を見るようで、微笑ましかった。それでも、いい感じのママさんと息子さんだなあと見ていて思った。ビールを飲みたいな、とは思っていたが、さすがに頼むをやめた。

 

 しばらく楽しく歓談したのち、彼らと別れた。しゃべっている間はペースダウンさせていたが、彼らが去ると最後の仕上げに一杯、柴漬けとともに頂いた。お椀が小さかったにせよ、結局、8杯は食っただろう。ごちそうさまを言い、部屋に戻って装備の点検、日記の執筆を行っていたが、さすがに疲労が蓄積していたのだろう、すぐに寝てしまった。

 

 

目が覚めてNHKニュースをつけると、7時40分になっていた。伊予西条行の始発バスにのるには、8時40分のロープウェイに乗らねばならないから、ヤバい。速攻で食事室に向かうと、昨晩のお母さんが「遅かったですね」と微笑して出ていった。取り敢えず、飯だけはそこまで急がずに食い、その後身支度をさっさと済まして、8時15分、旅館を出た。もう少しゆとりを持って出たかったなあと、反省。旅館からロープウェイ乗り場まで徒歩30分程度かかるため、可能な限り走った。こんなところで滑落したら本当に笑い者だと呆れつつ。それでも、何とか間に合った。

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ロープウェイからの車窓。今回は天気運には完全に見放されました…()

乗客は、我々3人だけだった。相変わらず、ガスは酷い。今日山に行ったって、昨日とは何も変わらないだろう。むしろ、悪化している。それがせめてもの慰めだった。お子さんは、雲の上だ!雲の上に立ってる!とはしゃいでいた。それが無邪気で可愛かった。いつしか、遠く下方にあったはずの雲海の中を通り抜け、山麓の寂れた集落が見えた。私は、下界に帰ってきたのだった。

国内ひとり西遊記 ②石鎚山(上)~参宮と試しの鎖~

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試しの鎖

 時計は大体4時20分を指していた。まあ区切りが良いのでここで起きることにした。地面を見る限り雨は降っていないが、星や月が見えないから、曇っているのかもしれないと思った。公園の東屋の下には正方形の木椅子があり、その横と東屋の屋根の軒先のわずかなスペースにマットを敷いて寝ていたから、降水されると多少は濡れるかもしれなかった。そいう意味ではなんとか耐えたが、登山中の天気はかなり怪しそうだ。

 今朝もまた、サーモスに入れたお湯を用いて、インスタントのラーメンとコーヒーで体を温める。土樽駅ほどの寒さはさすがにないが、それでも一桁台はつらい。木椅子に腰かけながら、ふぅっと息をつく。歩行者は誰もなく、時たま車が猛スピードで駆けていく音がどこかで響くだけだ。こんな朝早くに散歩しようという気が湧く爺さんも少ないのだろう。関東なら六時でもまあまあ明るいけれど、ここは冬至から間もない西国。六時半でもまだ暗闇の中である。

 

 荷物を片付け終わったのは5時15分。このまま西条駅周辺でダラダラしても良かったのだが、じっとしているのが苦手な性分だったので、ちょっと寄り道してみた。伊予西条から予讃線で一駅進んで石鎚山駅で降りた。この駅から十数分歩いたところに、石鎚神社という神社があるのだった。

 今から行く石鎚神社は、厳密には口之宮本社と言って、石鎚神社の総本山的な位置を占める。石鎚神社はこの口之宮本社、中宮成就社、奥宮頂上社、土小屋遥拝殿の四社を総称した呼び名だそうで、成就社と頂上社は今回の山行路の途中にある。多分だが、かつて交通が未発達だった時代は、修行者たちは、口之宮本社→成就社→頂上社→遥拝殿という風にお参りをしていたのではないだろうか。

 

 

 話は逸れるが、11月に浪人時代の友人に会いに、東大の駒場祭に行った。大学に入ってからも、彼には五月祭でも会い、10月には日本Sを一緒に見に行こうと第五戦のチケットを調達したのに、●●●●でダメになるという不遇があった。

相変わらず品格があり元気そうで何よりだったが、彼も彼で部活の売り子で忙しく、そこそこ話して別れた。そののち、講義棟内の企画展示を見に行き、神社研究会の展示に足を運んだ。その展示内容は色々あったが、私の目に飛び込んだのは、全国各地の神社の写真集だった。何の気なしに手に取っていると、穂高神社があった!そう、奥穂高岳山頂にあるあの神社だ(⇐p.s.正確には違った。穂高神社自体は、上高地から約一時間の明神池のほとりにある(20年九月に訪問)。まあ奥穂の山頂も祠っぽい感じになっているので、それを見たのかな?と推測)。急に夏の北ア合宿の思い出が一気に喚起され、同時に神社巡りと山を合わせても良いな、と思いながら各地の神社の写真を眺めていた。私の地元周辺には太宰府天満宮など歴史ある神社が多く、神社巡りに関しては割と興味はあった。

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奥穂高岳山頂

 

 あまりに食いつきが良かったのだろうか、一人の女性が近づいてきて、楽しそうですね、神社に興味をお持ちですか、的なことを尋ねてきた。ここの部員のようだった。

「はい、私ある大学で登山やってて、この穂高神社、夏に実際に行きましてね、こう見てると懐かしいな、と思いますね。山やりながら神社巡りっていうのも良いなあと改めて思いますよ。にしても、これどなたが撮られたんですか?」

 「先輩が撮ったのもありますけど、この辺の写真は私が撮りましたよ。長期休暇時に合宿で神社巡りをしたんです。それと、実家が山口なので、帰省ついでに神社巡りをしたりもしましたね。」

 「あ、山口ですか。いや、自分福岡なんで近いですね。」

 「ほんとですか。その、山口の神社って分かりますか?」

 「そうですね、有名どこだと松陰神社とかですかね、あるいは角島近くのなんだっけ、あの岬の方にいっぱい鳥居が並んでいる…」

 「元乃隅稲成神社ですね!結構ご存じですね。」

 「いえいえ。まあ地元が昔からの土地みたいで、それで古い神社が多いんですよ。有名どこだと太宰府天満宮がありますけど、筑紫神社ってのもありましてね、ここが自分の地元の神社なんですよ。なんでも道真公が左遷されたとき一人従者をつけて良いと、そんで道真公に随伴した従者が、その筑紫神社の神主になったって話がありまして。こういう話を子供の頃から聞いていると、やっぱ自然と神社に興味を持ちますね。神社の歴史とかについてあまり専門的に調べたりはしないですけど、やっぱ面白いですよね。」

 

そんなこんなで互いの地元の神社の話だとかで盛り上がっていると、例の写真集に四国編があることに気づいた。案の定、一枚目は香川の金毘羅神社だったが、その次が石鎚神社の口之宮だった。当時、私はこの口之宮の存在を知らず、成就社と頂上社だけが石鎚神社であると思っていた節がある。

 「四国にも行かれたんですね。」

 「はい、割と近いので。金毘羅の階段はきつかったですね。観光客も多いですしガヤガヤしてました。逆に、石鎚は静かで良いところでしたね。」

 「え、石鎚山に登られたんですか?結構きつかったんじゃないですか?」

 「いえ、麓に神社があるんですよ。流石に登りには行かなかったですね。」

 「なるほどですね。でも石鎚に行ってらっしゃるのは羨ましいですよ、やっぱ関東にいると四国になんて中々行けませんし。それでも、たしかに立派なもんですね。石鎚に登る機会があれば、その時には口之宮にも寄ってみようと思います。」

 

 

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石鎚山駅。右手奥のちょっとした突起は、石鎚山(?)

 閑話休題石鎚山駅に来たのも、勿論口之宮に行くためだった。当初の計画では27日はムーンライトながらで横浜を出るつもりであり、乗りつぶし事業の兼ね合いから口之宮は断念せざるを得なかったが、10時打ちを怠ったせいでながらの指定券を取り損ねてしまった。皮肉にも、そのおかげでこうして口之宮に行く時間が取れた。なんなら旧友にも会えた。これはこれで塞翁が馬というやつだろう。

 石鎚山駅では、予想に反することが二つあった。一つは古めの駅舎があることだ。何となく勝手に駅舎なしの雰囲気を感じていたから、木造駅舎厨からすると嬉しい。あるいは、まあ次の上り列車で折り返すわけだから、しかも客もいなそうだし上りが来るまで下りも来ないから、この待合室にザックをデポして(置いて)行くのも悪くない。負担軽減にもなる。ところが、内部に入ろうとドアに手をかけ内部を窓から覗くと、お遍路さんだろうか、少し汚れた装束に身を包み、笠やらを積んだ歩荷さんが持つような木造りの背負子を置いて眠っていた中年男性がいた。松本清張の『砂の器』に出てくるような本浦千代吉、その映画版で千代吉を演じた加藤剛に似た雰囲気があった。托鉢僧かもしれない。さすがにこれには私も驚いた。

 しかし、不思議と不快には感じなかった。まあ私自身場所は違えど同じことはやっているわけだし、10月に会津若松の地下歩道で浮浪者らしき旅人の横で野宿した経験がものを言ったのかもしれない。あるいは、そういう宗教的情熱を持ってお遍路をするその姿に心を打たれたのかもしれない。

 意を決して内部に入り、サラッと駅舎内部の観察を済ませた。幸い、彼は起きださなかった。さすがに彼の素性が分からないだけに、デポする自信までは湧かなかった。それにしても、この待合室は両側から締め切りが可能だし、木製の長椅子もあるから、駅寝にはピッタリだなとも思った。実際、彼はこの長椅子の上にいた。冬場にやるのが良いかもしれない。こういう状況でも、平気で駅寝の可否を考えてしまうこの性分、到底治りそうにない。

 

 駅を出て国道を横切りしばらく歩くと、鳥居が見えた。鳥居が見えた後もしばらくは生活道路みたいな雰囲気だが、暗かったのもあるのだろう、眼前に東大寺南大門みたいな立派な門が聳えていた。いよいよ拝殿かな、と思ったが、参道はまだまだ続く。時間的にまずいと思い、参道脇にザック等をデポし、身軽になって歩く。太宰府天満宮みたいに門と拝殿が近いものだと錯覚していたため、痛い目に遭った格好だ。

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石鎚神社・口之宮本社

 駅から歩いて15分ほど。やっと拝殿に着いた。暗闇の中あたりには誰もおらず、どこか神秘的な雰囲気があった。6時15分を回っていたにも関わらずあたりは真っ暗で、人間を含め生物の存在一つ感じさせない世界線だった。そこにあるのは全くの孤であり、あたかも地上で一番冥界に近い場所と思わせるような不気味さすらあった。

 

 

 

 九時になった。山頂行のロープウェイは段々と高度を上げていった。谷川の時もそう感じたが、ロープウェイを使って山に行くと、しばらく下界からサラバだな、という意識が出てくる。それが「しばらく」であれば良いのだが。改めて、下界に思い残すことはなかっただろうか。西条に戻った後、好物のペプシを一気飲みした。七時になって大分明るくなり、雲の向こうに岩々しい稜線が見えた。岩稜の黒っぽさの中にも、雪の白がかかっていいた。あの峰々がどの山に対応していたのだろう。はっきりとは分からないが、今こうして近づいている。谷川とは違い、登山者はけた違いに少ない。ロープウェイの山頂付近の先にはスキー場があって、この日はスキー開きのフェスをやっているようだったがこの暖冬、スキー客もそんなには見られない。ロープウェイの客は私を含め8名ほどだが、誰も喋らない。代わりに、積雪らしい積雪が見られない斜面を見つめては、嘆息のような眼差しを向けるだけだった。

それでも山頂駅では歓迎ムードであった。抽選会の券を貰ったり、親子連れの子供にはお菓子が配られていた。抽選会の時間を見ると14時とかだっただろうか。間違いなく登山中であり、ただの紙屑になるのだと思うと虚しいが、それを突き返す気にはなれなかった。

 

 一応、今回の登山計画を示そう。まず、9時20分ごろを目途に山頂駅を出発、その後、成就社があるピークへ。ここから本格的な石鎚登山を開始し、弥山をピストン、天狗岳は余力があればGoという形にした。四時くらいに成就社に戻り、成就社付近の山小屋風旅館に投宿という形にした。途中に鎖場が数か所あるようだが、当初は全てスルーの方針でいた。成就社・弥山往復の無雪期のコースタイムは鎖場を無視すれば四時間半、成就社発は10時だから、この計画に従えばまあゆとりのある計画と呼べるだろう。

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瓶ヶ森

成就社までは単調な登りの林道歩きである。ところどころ積雪や氷結が見られるがアイゼンまでは不要そうだ。とはいっても滑るからやはり多少危険ではある。しばらくは視界が開けており、私がいる山塊の反対側に、瓶ヶ森(標高1897m)が見える。この時間帯は比較的雲の動きが穏やかで、展望も効いた。一方石鎚の山容は未だに見えない。成就社がちょうどピークになっていて、眼前の斜面がその先の弥山の姿を隠しているのである。そんなうちに樹林帯に入り、山容が全く見えなくなった。

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石鎚神社・成就社

 十時手前になって、大鳥居が見え、その先に商店が見えてきた。常住屋支店白石旅館の文字だった。いわば成就社の門前町みたいなものだ。この白石旅館が本日の宿だ。この旅では唯一宿に金を掛けている。ここで旅館泊を選んだのは、今にして思えばまだ良心が残っていたと言えるだろう。何なら今日の内に下山して松山まで行き、道後の湯に浸かってそっから野宿というトンデモ計画もあったが、さすがに阻却したようだ。取り敢えずこの白石旅館に登山届の記入所があるので、これを書いて記入箱に入れた。それが終わるとすぐそこの成就社でお参りをした。白石旅館で山頂で飲む用のコーラを買って、10時20分、予定を多少オーバーしたが、石鎚山への門をくぐった。

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さあ、登山開始!

 

 

 成就社を出ると、まずは八丁鞍部という下り坂を行く。樹林帯というのもあり、積雪はへぼい。むしろかなり融雪がひどく、アイゼンを脱いだ。コースタイム通りに鞍部に着いて、登り返しになった。急登というほどの坂では決してないが、道の状況が悪かった。積雪がないからよいというわけでもなく、完全に解けるとべちゃべちゃになってて歩きにくくましてアイゼン歩行には向かず、かといって部分的に解けると氷結して滑るからアイゼンが要る。こういう悪路が交互に続くから、かなり神経を使う。トレースがしっかりしていた谷川の方が楽だと感じた。

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試しの鎖。意外と長い。

 それでも、おおむねコースタイムの水準通りに歩いていた時だった。目の前に鎖場が見えた。試しの鎖である。ロープウェイから登山する場合、順に試しの鎖、一の鎖、二の鎖、三の鎖と鎖場が4つあるのだが、この試しの鎖も直登67mと、名前の割に全然手ぬるいものではない。

 それはそうと、この岩壁を見てふと立ち止まり、思案を始めた。コースタイム的には良いペースだ。それに、よくよく考えりゃどうせ旅館泊だし下山四時を厳守する必要もない。要は時間的に余裕アリだ。天気も、そうは荒れなさそうだ。……技術的にはどうか。こればかりは分からない。岩場は夏の槍穂高以来だ。あの時の感覚が戻れば、多分やれる。

 色々考えて、行くという決断を下した。後から思い返してもこれが登山者として正しいか分からない。軽率であるのは間違いないし、少なくとも安全登山という面からは間違っているだろう。とにかく、このときはノリで行ってしまったの感がある。ともあれ、登り始めたのは11時10分のことであった。

 鎖場の岩壁はところどころ氷で覆われていた。それも岩と岩との隙間も覆われている箇所も見られた。無雪期はこの隙間を足場にするわけだから、かなり厳しい。それでも最初の内はうまいごと、特別な工夫も必要もなく登れた。

 問題は登り始めて10分足らずで起こった。それから上の部分が岩壁が完全に氷で覆われて、どういうルートで行くべきか少し悩む羽目になった。15mほど登っていたように思うが、これは撤退で良いだろう。そう思ってどう足をかけて下ろうか、と足元を見た時だった。

 

ん、ん??????????????????????????

右足のアイゼンがない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 これはどういうことか。冷静になって考えてみると、鎖場に入る前に一度アイゼンを付け直した。とすると、脱げたとしてもこの岩壁に残っている可能性は高い。改めて下方を見つめた。すると、5m下方くらいにオレンジ色の物体が見えた。間違いない、アイゼンだ。側の斜面を転がっていればそれはもう死みたいなものだから、取り敢えず首の皮一枚繋がった格好だ。目標は見つかったが、さて、どう下るか。まず、岩壁が垂直に近いため、ザックを置いて下るという手段はとれない。この時点で身体的な負荷が大きいし、荷物が邪魔で下方を確認しつつ下るのが難しいという問題点もあった。また、右足のアイゼンがないため、三点支持のうち一つは死んだようなものだ。ここは両手の支持が重要になると直感した。経験的に両手を鎖に委ねると力が集中して危ないと分かっていたので、片方はピッケルを握ってリスクを分散させることにした。

 私のやり方が正しいかは分からないが、支持が不十分なら重心が岩壁から離れ、バランスを崩してそのまま後頭部から落下するだろう、とは容易に了解された。正直、槍穂高の時より死を感じた。風を感じないだけマシだったが、こんなところで立ち止まるのもまた癪だった。意を決して足を下方に動かした。足で探るような感覚で安定した足場を見つける。見つかったらそこに体重を徐々にかけていく。その繰り返しだ。

 無雪期に部活として岩場を下るだけなら、何のこともない行為だ。だが、氷面で滑るという恐怖、同行者なく自分で足場を見つけなければいけない孤独感が、一歩一歩の足取りを重くし、時間がかかる。それでも、何とかアイゼンを拾えた。下降できた。問題はこのアイゼンをどこで付けるか。あと10mくらい下れば先ほどの登山道まで戻れ、スペースも十分にある。だがこの時、もう下りたくない、と思った。こういう岩場においては、下りの方が神経を使うということで、登りより下りの方が難しい。そんな理屈が思い浮かばないほど、とにかく下りたくない、という気持ちの方が勝った。アイゼンが脱げた場所も、わずかながら平だったことも幸いした。ここで半ば強引にアイゼンをつけることにした。まずはザックを一旦置き、落ちないように斜面に押し付けるように背中で力をかけた。その上で、アイゼンを付け直した。多分、アイゼンもしっかり装着できた。一安心して、ホントは山頂で飲むはずのコーラに多少手を付けた。ふう。

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本文中の停止地点。ここから一旦左側の土の斜面を直登した

 今思うと、普通に考えれば、来た登山道を戻って鎖場の巻き道を行くべきだろう。ところが、この時の私は、再び鎖場に挑んでいた。まあ私も晴れて山バカになったものだ。同じ轍は踏むまいと、時折足元を見ながら登って行った。先ほどのアイゼン紛失に気付いた地点に戻ると、改めてルートを見定める。鎖がある部分の岩場は完全に氷結していて、アイゼンが効くか微妙だ。ふと、横の斜面をみると、土の斜面に少しばかりの積雪があった。これは、岩場をそのまま通過するよりマシではないか?そう考えつくと、行動は早かった。この土面が崩落してはマズいから極力岩場に近いところを選択しつつも、基本的な足場はこの斜面を原則とした。左手にピッケルを持ってこの斜面に刺し、一方右手は鎖にかけた。結果的にこれが奏功した。土面の積雪が薄いながらもしっかりしていたため、足場が安定し、スイスイ登れた。しばらくして土面が鎖から離れたが、難所は越えたようだ。落ち着いて足をかければ、無理なく登れる!

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見下ろすと、こんな感じ

 時間はかかったが、正午ごろ、試しの鎖のピークに着いた。50分もかかってしまった。改めて登ってきた鎖場を見下ろすと、凄まじい急斜面だった。よく登ったなこりゃ、という感想しかなかった。いよいよ石鎚の山容も拝めるのでは?という期待もあって鎖に手をかけた部分もあった。しかし、あいにく頂上は完全にガスっていて、何も見えない。この段階で、登っても展望はないなと達観した。これはガスが濃すぎる。まあ天気が崩れてないだけマシと言えよう。そういうことにしよう。

 

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夜明峠付近。ガス、ガス、ガス(#^ω^)

 鎖場のピークから岩場を下り、12時15分ごろ、本道に復帰した。寄り道が過ぎた。さあ、戻ろう。やはり本道は楽だ。軽快に進んだ。しばらく歩くと視界が開けたが、やはりガスが酷くてどうしようもなかった。そろそろ夜明峠だろう。そんなことを考えていた時だった。突然、足が悲鳴を上げた…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国内ひとり西遊記 ①西へ

 前回谷川に行った。これはすべて石鎚の前哨戦である。石鎚山愛媛県西条市にある最高標高1982mの山である。古くから修験道といった山岳信仰が今なお息づく歴史ある名山であり、日本百名山にも選ばれている。頂上は弥山(1974m)だが、最高峰は弥山の先のナイフリッジを越えた天狗岳(1982m)である。そして、この天狗岳は、実は西日本最高峰だったりする。そりゃ、西日本生まれの私が是非とも行きたい、と思うようになるのは必然であろう。本当は、二年の夏くらいに帰省するときに、寄り道がてら登るか、くらいに思っていたのだが。それが11月くらいに俄かに自分の中で冬山に行く機運が高まり、結局12月に行くことにした。行くまでの経緯、ワンゲル連中との話については、前作 年末の谷川岳①②の記事あたりを参照していただきたい。さて、本作では、石鎚山へ向かった、2019年12月27日から2020年元旦までの六日に渡る一人旅の軌跡を記していきたい。

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鷲羽山山頂より

 

 

 12月27日。正午。私は大学の部室にいた。冬山の件で先輩に許可を貰い、部の備品のヘルメットや応急セットを拝借することにした。ザックにそれらをパッキングしていよいよか、と胸を高鳴らせていた。その高鳴りを抑えるために、部室に置いてある書き込みノートを手に取り、ボールペンを握った。

部室にはノートが置いてあって、バックナンバーは143に及ぶ。創部以来(?)延々と書き込まれてきたのだろう。その143のノートもあと1、2ページしかない。ここ数年はほぼ存在すら忘れられていたが(No.143の最初の方を書いた代がアニヲタの巣窟で私の一個上の新歓の時に新入生が発見してドン引きし、入部を断念したらしく、私の代の新歓の時にはそのノートを隠蔽していた、と主将談)、七月に初カキコして以来、ほぼ私のポエム帳かよと言いたくなるくらい書き込みまくった。多分私の書き込みだけでこの時点であっても6ページは浪費したのは間違いない。

当時は本気で石鎚で死ぬかもとか、メンヘラまがいのことを考えていたから、文章は痛いことこの上なかった。見返したくもない。この日もまた、そういう読むに堪えない駄文をひたすら書き連ねた上、コース等も書いておくことにした。仮に事故った場合でもスムーズに検証ができるように。あまり意味があるとは思えないが、それでも当時はこうするより仕方なかったように思う。

東海道線の列車の時刻を考えると、一時半には出たい。それまでこの部室で何ができるか。この部室に対し思い残すことはないか、と考えると、「岳」が読みたかった。島崎三歩でおなじみの山岳救助漫画である。この「岳」を読みつぶすために、10月から今日に至るまでどれくらいの時間部室にこもり、読みまくったことだろうか。この「岳」の舞台が夏合宿で行った槍穂高周辺というのもあり、ひたすらにハマった。

勿論三歩も好きなのだが、推しは阿久津君である。5巻あたりから登場して、救助人としは二人前ながらも次第に慣れていき、生涯の伴侶を得て父として救助に携わっていく男である。そんなに器用な人間ではないにせよ、三歩たちに助けられながら成長していく姿をみて、かくありたいと願うのも当然である。まあ所詮は漫画だし、過剰にアオハルな描写が為されている面は否定できないけれども。それでも、一番好きなシーンは、後に妻となるスズちゃんに告白するシーンである。阿久津は告白しようかチキって三歩に相談する、その時三歩が言ったのは、取り敢えず直登、ダメなら下山。

項をめくるのをやめ、改めて良い言葉だな、と思った。やはり、最後に読むべきものとしては最も相応しい本だった。

 

 横浜駅に出て、アクティーに乗る。天気は素晴らしく、湘南台の遠く、丹沢の峰々が雄大だった。しかし、冠雪らしい白は見いだせず、暖冬を思った。国府津で降り、駅前の湘南の青を目に焼き付けた後は、御殿場線に乗った。御殿場の手前あたりから右手に見える富士山。その裾野の大きさに息を飲んだ。東海道沿いを走っているだけでは絶対に分からないあの雄大さ。とにかく近い、そしてデカい。こんなに間近を鉄道が走っているのかと、衝撃的だった。ちょうど黄昏時であって、山の向こうに日が沈んでいく。その高嶺も黄金色の光を浴びて、どこか異世界にいるような神秘さがあった。この季節に富士山に登ることは決してないだろうが、いつか部で登りたいと思った。今年の八月末に部で登ろうとしたが、暴風雨にぶつかって、計画倒れになっていたのだ。

 

沼津に出ると、東海道本線名物のロングシート地獄である。展望を楽しむならば最悪な列車である。昔は私もクソだと思っていたが、実際に乗ってみると考えが変わるものだ。まず、着席確率が上がるし、ザックというくそデカ荷物を置くとなるとロングシートの方が都合が良い。また、JR東日本みたいに座席が固いということもなく、座り心地は悪くはない。旧型車ならトイレはないが、最近は旧型車とトイレ付きの新型車が併結されることも多いようで、案外心配の必要はない。旧型だけの場合は運が悪いと割り切るだけだ。

しかし、JR東海も多少文句のつけどころはある。というか、首都圏の駅に慣れていると、大分困る点がある。それは考えてみれば当たり前なのだが、駅構内のコンビニの少なさだ。いや、地元福岡でも駅構内に売店がある駅なんぞ相当限られるわけだが、首都圏の当たり前に浸かっていると痛い目に合う。

そういえば沼津では乗り換え時間が短く、売店に行く暇はなった。静岡は二、三分で発車だし、次は浜松だ。しかし、静岡あたりで限界を感じていた私は、浜松まで待ちきれず、掛川豊橋行に乗り換えることにした。要はこの豊橋行に掛川で乗り換えるか、浜松で乗り換えるか、だけの話である。しかし、掛川駅の在来線改札口付近にすらコンビニはなかった。探すと、駅から一分くらいのところにローソンがあった。店内はしかし、私の同業者たる18きっぱーらしきが行列をなしており、乗り換え時間の10分には間に合わなさそうだ。18きっぱーにとって、乗り遅れは致命傷だ。ここは仕方なく撤退せざるを得なかった。腹はコーラを一気飲みしてごまかした。結局、食事は豊橋きしめんまでお預けとなった。

 

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豊橋駅きしめん

                                                                                          

その後、三河地区の強風とかで20分くらい遅れて米原に着いた。野洲西明石行新快速最終に乗り換え、零時過ぎに新大阪に着いた。今度は各停で折り返し、吹田に着いた。

 吹田には、関大の旧友Rがいた。中学からの仲だ。彼はバイトで吹田駅周辺で飲食のバイトをやってて、一時上がりということで、彼を駅前で待ち続けた。こいつには夏にも会っていて、泊まらせてもらった後、翌日は二人で甲子園の準決を見に行った。それ以来だ。

 一時になって、奴が来た。こいつにはゲジ眉坊主がよく似合っていたのだが、今は髪を茶色に染め眉を剃っている。それでも生まれ持った九州男児のイモっぽさは抜けきれず、いかにも田舎から来た大学生デビュー感が否めないため、やっぱ似合わねえなと爆笑する。こうなるとお互いに罵倒合戦だ。まあ、12歳の友はもう持てないとは言ったもので、安心して馬鹿にできるし、久々に痛烈に口撃される。これはこれで良い。

 R曰く、もう一人同郷人Yがもう来ているらしい。Yも中学の同級生で、彼とは小学からの仲だ。というか、小学で一番遊んだ奴だ。Rはどちらかというと学友に近いが、Yは趣味友だ。小学時代からチャリ旅と称してママチャリで地元周辺を駆け回った。高校でも学校は違えどチャリ旅は続け、有田や唐津に行ったこともあった。現在、彼もまた関西の私大に行ってる。

当初の計画では、明日は少し早く出て加古川線とか乗りつぶし事業を進めようと思っていたが、こいつらがいるならそれも惜しい。よし、飲むか!ってことで氷結とかの安酒を仕入れ、R宅に着いた。Yがクソ遅いとぼやいた。もう二時半だった。

久々ということで、ポテチをつまみつつ氷結を酌み交わした。谷川帰りのグリーン車一番搾りを飲んで以来の酒だった。ほんとジュースみたいな甘さだったが、このところあまり飲んでないのですぐに酔いが来た。酔いながら一通り今回の旅の計画を語り、ピッケルの使い方を(本当はよく分かってないのに)実演して粋がる。彼らはたいそう喜んでいた。その後は、DT仲間同士、いかに女性との接点がないか、とか、中学のあいつは彼女出来てひとかたならぬ関係になったとか、極めて不毛な会話に収斂する。そんなこんなで眠くなり、シュラフを敷いて寝た。

 

 

九時半に目が覚めた。取り敢えず大阪発13時の新快速に乗ろうと決め、それまで取り留めない話に花を咲かせた。11時になってRが、お前との最後の晩餐だな、死ぬ前くらい旨いもん食おうぜ、と言って来た。そうだな、と、彼の行きつけの焼肉の店に行くことになった。しかし開いてなかった。仕方なく、関大前駅の王将に入り、たらふく食った。会計は持ってやると二人が言ってくれたのでその厚意にあずかった。気が付けば早いもので、関大前駅まで来た。

お前に何かあったら葬式くらいは出てやっても良いぜ、まあ成人式来いよ。遺影だけ参加ってのも、まあお前らしいっちゃお前らしいけどな。ま、頑張れ。そんじゃな。

ああ、と生返事して、彼らの顔を軽く見た後、ホームへの階段を駆け上がった。

 

 

阪急で梅田に出た後は新快速で姫路へ。Aシートだったから余裕だったが、相生行戦線、岡山行戦線では案の定座れなかった。この時期この線区は十中八九18きっぱーばかりで、地元民にすればさぞ迷惑なことだろう。岡山に着くと、マリンライナーに乗り換えた。普通ならそのまま高松だろうが、児島で降りた。

 

 いちいち児島で降りたのは、鷲羽山に行ってみたかったからである。北アルプス百名山とはまた違う。瀬戸大橋の岡山側の先端にある低山だ。昔、四国方面の夜行急行に鷲羽ってのがあったらしい。それがなければ鷲羽山を意識することも認知することもなかっただろうし、よもや行ってみようなどとは思うこともないだろう。今回の目標たる石鎚だって、特急いしづち号(高松~松山)の存在がなければ意識することもなかっただろう。前回の谷川だって上越新幹線谷川号の存在がデカい。要は、優等列車の名前にもなるような山とはどんなものであるか、と興味がわき、その山について調べて、こりゃ良い山だ、行きてえ、という風になって旅の欲が掻き立てられ、行けるとなれば行く。私の思考回路はそんなものだ。

 まあこの鷲羽山という山は、瀬戸の景色を楽しむにはうってつけだ。近くには鷲羽山ハイランドという遊園地があって、中々の絶景が遊びながらにして楽しめるらしい。今回は行かなかったが、鷲羽山近くの下津井集落には、前述の鷲羽山ハイランドや古城があるらしい。いずれにせよ、児島駅からはどう少なく見積もっても3~4㎞ほど距離があるため、本来なら車やタクシーあるいは(あるか知らんが)バスを使うのが普通だろう。

 しかし、その辺の下調べを放棄していた自分は、取り敢えず歩きゃ着くでしょ的なノリでただただ歩いた。取り敢えず海沿いの道をひたすら歩いた。しばらくすると競艇場があって、吉田拓郎の「落陽」で言うところのろくでなしの男たちが、児島駅までのバスに群がっていた。取り敢えず便乗して―!、と切に思った。今まで真面目腐って歩いてきたのが馬鹿みたいじゃねえか。

 帰り道はそれを使ったのだが、実はこの辺には下津井電鉄というローカル私鉄が存在していて、その廃線跡が遊歩道になっている。この遊歩道を通れば、最短経路で鷲羽山の山頂に行ける。しかし、下津井電鉄くらいは知っていても、その廃線跡がどこにあるかなど知る由もなく、ひたすら海沿いの集落をさまよった。これもある種バリエーションの一種かと苦笑しつつ、斜面をのし上がって廃線跡の遊歩道にたどり着いた。

 

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しばらくして高速を越えた先に茶屋みたいなのがあり、それを左方向に進むと登山口がある。と言ってもしばらくコンクリで舗装されているし、距離も高が知れている。道すがら、ところどころちょっとした大きさの岩が鎮座していて、看板を見ると古墳であるらしい。景色もいいし、それなりの権力者だったのだろうか。

 そんな古代の情趣をじっくり堪能し考察するには余りにも短すぎた。正確な記憶も記録もないけど、五時ごろ、山頂に着いた。3時50分くらいに駅を出たので、足掛け約1時間。まあ疲れもあるんで、読者の皆様はぜひともタクシー等を使って、周辺も観光して経済を回していただきたい。それはさておき、山頂には先客がいた。バツが悪いことにカップルだった。自撮りして顔をこう密着させて、いかにも幸せそうな写真を撮っていらした。相手の見た目が明白にDQN風でなければ、こういう時は邪魔はせずとも黙って勝手に観光を楽しむのが正解である。黄昏時の瀬戸大橋を眺めつつ、綺麗じゃぁ、とボソッとつぶやいてみたり、相手に気兼ねすることなくマイペースに楽しむのが一番である。ほどなくして、彼らは下山した。どうせ、なにあの登山ガチ勢みたいなのは、邪魔しやがって、と愚痴られていることだろう。彼らがいなくなったのを見て、10分ほどではあるが、瀬戸大橋と瀬戸の向こうに沈んでいく夕陽を静かに眺めた。

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 児島に戻ると、四国にいくかと思いきや、茶屋町に引き返した。そして、宇野行に乗り換えた。この旅のもう一つの目的、乗りつぶし事業のためだ。
 古くは宮脇俊三の「時刻表2万キロ」が有名だが、日本全国の鉄道路線(原則JR、私鉄等を含めるかは人によって分かれるところ)を全線乗りつぶすことを生きがいにしている連中は、一定数存在する。私もその一人だ。人生何年続くか知ったものではないが、特にこういう地味ローカル線は案外やり逃す。超ローカル線とは異なり、行きたいという欲がそうは湧かないからだ。年を取れば普通列車ばかりの旅も堪えるだろうし、そもそも就職してもし結婚することになれば、そんな暇も取れないだろう。だから、学生時代に行けるところはバンバン行きたい、というわけだ。
 終点の宇野に着いた。宇野という街は今でこそ死ぬほど地味な街だが、瀬戸大橋が完成する前は、ここ宇野が本州と四国をつなぐ一大拠点であった。前述の急行鷲羽や特急瀬戸、要は東京発の夜行列車はここ宇野が終点で、乗客たちは宇高連絡船に乗り換えて高松に向かう。そんな光景があった。宇高連絡船なきあとも地元のフェリー会社がフェリーを運航し続けていたが、この年の12月半ば、要はこの日の二週間前くらいを以て運行休止となってしまった。一度は乗ってみたかった。今では、広い波止場がかつての栄華を思い起こすだけだ。宇野駅自体も構内は大分縮小され、ただの小駅に成り下がった。

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宇野駅舎。瀬戸内国際芸術祭の舞台でもあり、それに合わせ外装もお洒落になった。


 それにしても、宇野という響きは際立って良いものだと感じるのは私だけだろうか。鉄ヲタあるあるで、頭の中で仮想世界を創造していた少年時代だったが、宇野はその仮想世界の首都名であった。それだけ、私は宇野という響きが好きなのかもしれない。宇野という文字を宇と野に分解したとき、「宇」という文字について注視してみると、気宇壮大とか宇宙といった単語から連想される通り、どこか果てしない広がりというか奥行きを感じずにはいられない。実際「宇」には、屋根、天、心、といった意味がある。だとすれば、宇野という土地は、“天の地”と訳すことが出来ようか。勿論地名の由来には諸説あるだろうし、断定的なことは何も言えないが、地名が”天の地“というのはなかなか素晴らしいものではなかろうか。宇野が瀬戸内沿いというのもあり、若いころの小柳ルミ子が歌う”瀬戸の花嫁“の世界観がよく調和する。瀬戸の花嫁のイメージも相まって、どこか宇野という街には、天女の存在を思わせるような神秘性を感じる。
 と、ここまで大分観想的な妄想に陥ってしまった。実際、どこか宇野という街は名前だけで行ってみたい、と思っていたし、行けてよかったと思うが、唯一後悔しているのは、鷲羽山の夕陽を取って、宇野に着いたのが真夜中だった点だ。宇野は瀬戸内の芸術祭の舞台でもあるし、またいつか機会があれば、日中に再訪しよう。

 宇野駅近くにスーパーがあったので、これを幸いにと買い出しをする。朝飯、登山での食料を中心に買い足した。名残惜しみながら宇野を後にし、茶屋町に戻ってマリンライナーに乗った。10分ほどたって瀬戸大橋を渡った。景色を楽しむには暗闇が過ぎるが、久々に本州を離れて四国に渡るのだと思うと、感慨深いものがあった。


 
 23時43分。伊予西条に着いた。石鎚登山の玄関口である。明日の七時半過ぎに麓へのバスが出るので、それまでは待ちだ。今日はこれから寝場所を確保しなければならない。だが、宿探しとはまた違う。やはりケチなので、そこらへんで野宿すれば良いと思っていた。前も書いたが、本当はこんな貧乏ったらしいことをするより宿に泊まって経済を動かした方が、経済的にも治安的にも正解だろう。しかし、当時の自分には、そんな発想も財布の余裕もなかった。むしろ、好んで野宿をしていた。だいたい四国でしかも海抜100mもないような平地で野宿したって死ぬことはない。完全に間違っているが、先週は谷川の麓で死ななかったのだから、四国の平地で野宿など屁とも思っていなかった。
 誰得情報ではあるが、一応野宿する場合、どうしても押さえなければならない点がある。それは屋根である。人が来ない所を選ぶのは言うまでもなく重要だが、それと同じくらい重要である。10月にとある文化会館の軒先で野宿したとき、2時くらいに突如土砂降りがきた。幸い濡れることはなかったが、ここで雨にひっかぶれば体温低下による体調不良だけでなく、装備が雨に濡れて重くなったり、最悪 out of use といった惨劇も十分ありえる。10月のこの件で幸運だったのは、マットとかを敷いていた軒先の下の部分はこの文化会館庁舎の外廊下の部分だったようで、高床になっていた。だから、下方に流れていった雨水に濡れるという事故もなかった。(なおその文化会館庁舎は特にフェンスとかで締め切られた様子はなく、少なくとも庁舎の玄関前の軒先までは、誰でも平気で立ち寄れるようなところだった。不法侵入と言われればそれまでだが、少なくとも、塀とかをよじ登って入ったわけではない)
 この経験を踏まえると、屋根付きで少し高いところ、にこだわりたい。特に屋根付きには。すると、街中でやるとすれば、場所は自ずと限られる。民家や商店の軒先は色々問題がある。場所によっては駅もアリだが、伊予西条はダメだ。とすると、公園一択ということになる。
 とりあえず、駅近の公園を探して歩いてみる。すると、西条市民公園というのがあった。行ってみると、割と大きな公園だった。南側に広いグランド、北側には家族連れにうってつけそうな遊具のスペース、そして、真ん中辺に立派なトイレと沢山の木々と原っぱ。トイレが中々しっかりしているんで、ここで良いんじゃない、と思った。当初はトイレの軒先でも良くね、と思ったが、奥の方を見ると、3mほど盛り上がった丘みたいなのがあって、しかも東屋風になっている。要は屋根付きかつ少し高いところであった。嬉しいのは、トイレとは違って歩道からも離れているため、通行人とバッタリ会うリスクも小さい。例えば、ヤンキーが公園に乗り込んだって、わざわざこんな東屋に来ることもないだろう。
 こんなにアッサリ希望をすべて満たす場所が見つかるなんて。まさに天祐というより外ない。疲れたな、とザックを下ろし、マットとシュラフを敷いてすぐに横になった。と言っても、列車で寝たせいかすぐには寝付けず、ぼやっと空を見た。てんきとくらすによれば、明日は曇り模様で、ガスの中の登山になりそうだ。それでも、空にはまだ星がいくつも見えた。まだ、晴れる望みはありそうだ。

 

 

年末の谷川岳④ 12月22日 Sail on, Silver !

ふと目を開けると、不快なまでに眩い蛍光灯の白が視界を突き刺してきた。土樽駅は夜中中光をつけっぱにしているらしい。腕時計を見れば5時15分を指していた。そろそろ潮時だろう。まだ寝たいという欲を抑え、目をさすりながら朝飯の準備に取り掛かる。

 野宿の朝飯だし、ガスを使うわけには行かないので食えるものも高が知れている。それでも、冬山を機にサーモス製の保温性の高い水筒を買っておいたのは正解だった。昨夜の越後湯沢のコンビニでこっそりお湯を水筒の中に入れたので、火を起こさずとも暖かいものが食える。どん兵衛のきつねうどんをに湯をそ注ぎ、麺をすする。別に特段贅沢ではないが、寒いときに食うと身に染みる旨さだ。麺が無くなると、昨晩買っておいた具なしの塩おむすびを投入し、雑炊のようにして汁ごと飲み干して食う。

 寝具や寝間着をザックになおし、日記を書いていたりすると、そろそろ列車の時間だった。ホームに立つと、闇のむこうから青みがかった銀色の閃光が見えた。定時でこの小さな停車場を後にした。

 

 国境の長いトンネルを抜け、土合に戻った。ホームの先の半ば薄暗い駅舎の構内に入ると、思った以上に駅寝客がいた。それも案外、50は過ぎたであろう中年の女性が多かったりする。まあ、駅前には車が何台か停まっていて、純粋に寄り道しただけかもしれないが、寝袋の片づけをしてる連中も少なくとも5人はいた。それも須らく中年の男女だ。いい年して中々図太い神経をお持ちでいらっしゃるものだ。私がこんなことを言える立場にはないだろうが、一応自分の中では、野宿は大学生時代限定の遊びであり社会人以降はやらない、と決めている。今も昔も孤独を愛している節があるが、実際にやってみると、勿論すばらしく楽しいのだが、ワンゲルでみんなでワイワイやりながらやるアウトドアの楽しみを知った以上、知り合いを連れて来たかった、と思うようになった。あるいは、こういった感情は少なくとも少年時代には感じなかったけれど、純粋に気になる人を頭に浮かべて、かの人がかように野宿というような貧乏ったらしいことこの上ない趣味を持っている私の“実態”を知ったならばどう思うだろうか、とか考えてしまう。その人はお嬢さんと形容するに相応しい気品を備えた人であり、どこか分不相応なものに思われてならない。

 実のところ、当時の私の意識は冬山半分、その人半分に向いていたように思う。要は何も考えていない、頭すっ空っぽ、ということだ。まあ取り敢えず今日こそ谷川リベンジして無事に下山して、いつかその人にまた会おうというのが目標であった。土合駅では着替え、パッキングの最終調整等にしっかり時間をかけ、今日も再びベースプラザに向かった。

 

 

 ロープウェイの山頂駅に着いたのは8時45分頃だった。アイゼン・ゲイタ―の取り付け、ピッケルの準備をした。今日は昨日と同じ轍を踏むまいぞ、としっかり装着できているか確認し、問題なくやれそうということが分かった。天神平の積雪は40㎝。相変わらずだ。天気も昨日とあまり変わらない感じの曇り方だった。

 

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9:05 AM , Sail on, Silver !  @天神平

 昨日全く同じルートを辿っているだけに、迷いは全くなくペース配分の具合も大体理解できていた。昨日や塔ノ岳の折とは違い、無理なく適切なペースで順調にやれているという自信があった。登山開始から30分、余裕を残して第一休憩に入った。実はこの時点で、昨日到達点を既に越していた。もっとも夏山のコースタイムからして普通くらいだし、むしろ昨日がいかに無益なる怠慢であったか、というだけの話だが。いずれにしても、トレースがしっかりあってラッセルの必要性が皆無だったこと、天気が比較的良好で昨日同様降雪が皆無だったのは助かった。楽勝コースの天神尾根とはいえ、熊穴沢小屋までは斜面を縫うような道で、踏み外すと深い谷底に消えてしまいそうな不気味さがあった。視界不良なら、踏み外しの滑落もあり得るかもしれない。トレースがなく、雪庇ができていれば尚更だろう。そういう意味では、やはり谷川は冬山一発目で行く山ではないとつくづく感じたが、なるほど、いいタイミングに来たな、と内心ほくそ笑んでいた。

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熊穴沢避難小屋付近から

さらに天気に関しては、私に大いに味方してくれた、と思った。熊穴沢避難小屋の手前当たりから完全に雲は晴れ、思わず立ち止まって見惚れてしまうほどだ。悲しいまでに蒼い空に、真白に染まった高嶺の頂がよく映えた。昨日と比べても雲の量は段違いに少ない。。こんな天気でやれるなんて昨日以上にVじゃないか。しかも熊穴沢避難小屋へも、無雪期と同等のスピードで来れていた。まさに天祐という気分だった。

 

 

 

 

 熊穴沢避難小屋を過ぎると、それまでの斜面沿いを縫うように進む緩やかな坂道ではなくなり、本格的に勾配がきつくなって、いよいよ遮るものが段々となくなっていく稜線上を行くことになる。快調に飛ばしていくが、さすがに斜度が違いすぎて、多少スローダウンせざるを得ない。そうはいっても、中年パーティーが丁度よい休憩スペースを陣取っているため、中々休憩に移れない。避難小屋から20分歩いたところでうまい具合に場所を見つけ、無理せず休憩を入れた。

 Blance Power(カロリーメイトのバッタモン)とかを頬張りつつ、山頂と下の方の様子を見た。避難小屋を出て10分くらいから雲が出始めていたが、今となってはその雲はいよいよ留まることを知らず、山頂は霧中であった。

 このとき、先ほどの晴天が疑似晴天であることに気づいた。所詮は付け焼刃とはいえ、遭難関係の本を見ると確実に目にすることになる疑似晴天という単語。新田次郎を読んでりゃ飽きるほど頻出なパターンである。代表的なものとしては二つ玉低気圧というもので、二つの低気圧がある山を挟むようにしては発生したとき、その山は一時的に天気が回復するが、すぐにまた荒れるというものである。2012年5月の白馬山での遭難事故が有名である。

 

 

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日本気象協会のサイトより

 

 さて、今日の22日が実際に二つ玉低気圧だったかというと、そうではないようだ。実のところ、あの疑似晴天の原因が何たるか、いまだに理解できていない。気象学の知見に浅いため断定的なことは言えないが、マクロレベルでは発生要因が分かりずらいが、ミクロレベル、つまり局地的には疑似晴天を発生させうるような気圧の要因があったのかもしれない、ということにしている。

 

とにかく、熊穴沢避難小屋の時点では疑似晴天だとは全く見抜けなかった、少なくともそうした疑いの目を向けきれなかった。これはある種の敗北であった。他の登山者たちはやっぱ天気持たないネ、的なノリだったからそれを余計感じた。まだ撤退するには早いと思ったし、体力的にもいけると判断したからそのまま登り続けたが、やってしまった、という思いが強くなっていった。多分死なないだろうが、何も学ばずに突っ走ってことの怖さを感じながら、登り続けた。

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天狗の留まり場にて

 11時になって、天狗の留まり場で休む。このあたりまでがきつい勾配だったと思う。標高は1700mを超えている。そしてこのあたりから下の方すら見えなくなった。山頂付近の雲の対流の中に取り込まれたのだろうか。降雪がないだけマシだが、先ほどの休憩地点と比べ、明らかに風が痛い。寒いというより、痛い。視界もこのザマだ。先行するパーティーの列は道標をなし、彼らの足跡だけが私を安心させる。

 さすがにゴーグルを装着して、外していたネックウォーマーをつけて歩き始めた。視界はどんどん酷くなっていくが、トレースだけはしっかりしている。天狗の留まり場以降からは視界を遮るような木らしい木が減っていく。無雪期に行けば森林限界を越えた場所なのかもしれないが、木が生えてない分どこが登山道なのか、斜面なのか見当がつかない。少なくとも、こんな場所に雪庇ができていたら、雪庇だと見抜くことはできないだろう。その点、トレースというのは、道しるべ以上の意味があるように思った。

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あと少し!

 

 それでも、ただただ歩き続けた。ホワイトアウトでどこをどのくらいの距離どの方向に歩いているのかよく分からないまま、ただただトレースを辿った。すると、11時35分頃、前方に茶色の建物が見えた。谷川岳肩の小屋である。冬季は休業しているが、それでも、現在地点が明瞭に把握できるスポットがあるのは、精神的にもかなり大きい。そして、山頂も近い。久々に見た行先表示の看板に、トマノ耳の看板があった。ここまで来たら楽勝、と思ったが、案外遠い。当時はあまり調べていなかったが、小屋とトマノ耳までは高低差が50m以上ある。

 そういえば、一週間前の14,15日の東大のスキー山岳部が西黒尾根から登攀していたことを思い出した。登山地図的には、小屋とトマノ耳の間に西黒尾根への分岐路があるはずだろうが、はて、どこだろうか。ちょっと探りたくなった。トレースを1mほど外れた時だった。それまで激しい対流をなしていたガスが一瞬晴れ、視界が一瞬明らかになった。そして愕然とした。崖だった。要は、稜線のふちに立っていて、稜線からそのまま落ちていこうとしていたのだ。さすがに血の気が引いたが、気を取り直してトレースを辿った。少なくとも冬山初心者の身分である以上は、冬山ではトレースこそが正義である。そう思わされた。

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 11時45分。ついにトマノ耳に登頂した。といってもガスの対流が激しいので、景色を惜しむ余裕も面白みも微塵もなかった。それでも、小学校時代から知っていた名山に登れたことは嬉しかった。山頂付近は写真撮影でまま渋滞していて、山頂の碑から外して写真撮影を楽しんだり、逆に他の登山者の頼みに応じて登頂写真を撮ってあげたりする。五分ほど待って、私も写真を撮って貰った。ポーズは私の高校の体操のサビのポーズを採用した。生徒会長と副生徒会長で有名な高校である。2chの受験板あたりを見れば大抵の事情が掴めるだろう。参照されたい。なお、ワンゲルのLINEにこの写真を送ると、女番長こと某副主将が、生徒会長の悦びのポーズであると形容した。その着想には、さすがに引いた。

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谷川岳トマノ耳 11:51 AM

 しかし、この写真撮影というのが中々厄介なものである。手袋を外さないと難しいのだ。当然、風もあるため飛ばないようにせねばならない。しかし、山頂は降雪がないにしてもクソほど寒い。写真を撮るたびに一気に霜焼けになってしまう。スマホ対応の手袋もあるようだが、それを買う余裕はなかった。

 写真を撮ってもらうまでの間、オキノ耳の方を見据えた。谷川岳の主峰はトマノ耳、オキノ耳の双峰であり、前者が後者の手前にある。当然、オキノ耳に行ってみたいという思いはあった。しかし、例の霜焼けで大分メンタルをえぐられてしまった。

 追い打ちをかけたのはガスが晴れて、オキノ耳への展望が開けたことだ。当時、計画ではコースタイムばかり気にして、あまり高低差に目を向けていなかった。谷川の山と高原地図は縮尺がデカい方なので、高低差が分かりずらい。トマノ耳とオキノ耳の固定差それ自体は15mほど、コースタイムは片道10分だが、視界が開けたことで、鞍部が存在し、しかも50mほど下る必要があるということが分かった。無雪期ならともかく、疲労も考えて、これはトマノ耳で撤退だなと決めた。

 

 トマノ耳から肩の小屋に戻り、休憩を取った。インスタントコーヒーをつくり、口に流し込んだ。うまい。やはり、あったかいもんは正義だ。コンビニのおにぎりも死ぬほどうまい。エネルギー補給は大切である。

 人心地がついたといっても、風が強すぎて、早く帰りたいということしか頭に浮かばなくなった。というわけで、12時10分、速攻で下山を開始した。取り敢えず最初は死に程風が強かった。正直この辺は、あまり記憶がない。ただただ爆速で進んでいたことは分かっていた。天狗の留まり場に戻ると、下方の視界は晴れた。振り返っても、山頂は霧の対流の中に埋もれていた。改めて下方を見渡して、白く染まった峰々、葉や茎が氷で覆われてしまった少し丈のある植物を眺めながら、高度を下げていった。

 

 14時05分。天神平に戻った。取り敢えず登頂の上帰ってこれた。オキノ耳は断念したが、やれるだけやれたという達成感を感じた。天神平のスキー場の自販機でコーラを買い、一気飲みしてゲップする。コーラ自体はさることながら、やっぱ登山の後のこのゲップの味が本当にたまらない。

 一定の充実感を感じながら、ロープウェイに乗り込んだ。車窓を眺めると、だんだん視界から雪の白が消え、木々の黒が目立ち始める。ベースプラザ付近は相変わらず雪が皆無である。娑婆に帰った気分だった。

 

 

 バスで土合駅に戻り、上越線の電車に乗って隣の湯檜曽で降りた。昨日会った中年夫婦が泊まる、と言っていた場所だ。彼らにはついには会うことはなかったが、思い出すと懐かしいものだ。しかし、どうも公衆浴場的な日帰り温泉が見当たらない。Google先生いわく、ここは基本宿泊用の宿が多く、日帰り入浴は14時とかで打ち止めにしているらしい。まあ、比較的小さな湯治場的な温泉街なので、登山客に大挙して押し寄せられても困るのだろう。そのせいか、道行く人もまばらだった。それでも、やはり二日分の疲れを癒すべく、駅から近い旅館に行き、時間外ながら日帰り入浴を頼んでみた。今日は日曜で客が少なくおひとり様なのでどうぞ、とご主人。ありがたい。

浴槽は一つでせまく、五人以上で入ると間違いなく不快に感じるだろう。しかし、それだけに一人でこうまったり時間を使うにはうってつけだ。泉質とかよく分からないけれど、こうのんびり心乱れることなく実質貸切風呂状態で楽しめるのはこの上ない愉悦だ。こういうのもまた贅沢だなぁ。今度来るときは宿泊客としてゆっくり楽しみたい。

 

 

 湯檜曽駅に戻って水上へ。そろそろ腹が減ったので買いだしたいが、水上の駅前は五時半という時間もあってか店の光一つすらついてなく、しかたなく自販機で売ってた豚汁缶とやらを飲み干した。

 高崎行の鈍行ではさすがに疲労で爆睡したが、渋川あたりで目を覚ますと、自己反省会を開始した。まあ、一応の成功とはいえるだろう。暖冬とはいえ何だかんだコースタイム通りだし、体力的には行けるということが証明できたのは大きい。丹沢で痛めた足が再燃しなかったのも、良かった。どうせ石鎚も暖冬で谷川以上に積もることはないのだから、積雪に関してはビビらんでよいだろうと自信になった。昨日の体たらくもあったが、初雪山としては成功と言えるだろう。勿論課題も多い。やはり、疑似晴天の見落としは看過できない問題だった。今後の活動の時、後輩を連れて行ったときにこの手の判断ミスをやらかしたら、それも北アルプス森林限界を越えた稜線だったら。夏山と言えどかなりヤバいんじゃないか?地形の把握も不十分だったのではないか?そんなことを考えた。とにかく、良くも悪くも色んなことに気づけた山行であることには間違えなかった。取り敢えずこの経験を何らかの形で文書に残そう、と思った。

 高崎に着くと、速攻で松屋に入った。死ぬほど食ったような気がする。正確には何を頼んだか記憶にないが、家計簿によれば牛丼ごときで1000円以上使ったのだからまあ食ったんだろう。高崎は、駅の横が旭川みたくイオンが建っていて、私のような貧乏18きっぱーには大変うれしい。ビールとつまみを買った後は、小田原行のグリーン車を奮発して、車内でつまみのせんべいを片手に晩酌をする。気づけばウトウトしたまま寝込んでいて、起きると新橋だった。大分進んだわ、そろそろやなと思いながら、流れゆく東京のビル群を見据えた。

 

 

 

 

 

おわりに

これにて、四回にわたる谷川岳編は終了となります。拙い文章ではありますが、このブログをみてくださった方々、ありがとうございます。

このブログの趣旨としましては、Twitterや友人との日常会話で言うには冗長な上に誰も興味を示さないであろう事柄を、好きなように書き連ねていこう、という点にあります。従いまして、冗長で文才のない文章が延々と続き、苦痛に感じるかも知れませんが、この文章というのは別に誰かに見てもらうことを前提にしてはおらず、まして有名ブロガーになろうという気は全くなく(むしろ地味のままでいい)、一方的なに情報発信として行っているだけであります。そのため、これからも文体とかは特に改善する気もなく、好きなように書いていこうと思っています。

次は年末の石鎚山の旅を書いていこうと思います。こんなしょうもないブログに興味をお持ちの物好きな方々がいらっしゃいましたら、これからもどうぞよろしく。

 

 

 

 

 

年末の谷川岳③ 12月21日 ~錯誤と試行~

 

 

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土合駅名物の階段


2019年12月21日 8:37 長岡行の鈍行は暗闇の中の停車場に停まる。言わずと知れた、上越線土合駅の下りホームである。上越国境の山嶺を貫く新清水トンネルの真ん中にあるこのホームは、地下70m、462段の階段によって外界から隔絶されている。この長い階段を抜けて駅から30分ほど歩いた先に、谷川登山の拠点であるベースプラザがある。普通の登山者ならさっさと駅を後にするのだろうが、そこは鉄ヲタ。小学生時代からの憧れの駅に着くや否や、趣味の駅構内観察をせずにはいられない()しかも、なかなか観察のし甲斐があるのだ。

例えば、この駅の下りホームはもともとのホームの先に新しく付け足されたものだとわかる。新清水トンネルが単線トンネルだということを思えば、もともとのホームは本線から分岐した待避線上にあり、本数が多かった頃は、この駅で通過待ちをしていたのではないか。角栄よろしく上越新幹線が開通し、本数が減って待避線が不要となったために、かつての待避線上に新しくホームを新設して本線上にホームが接している現在の形になったのではないか、と軽く推測がつく。昔からの形を留めている駅ではこの手の推測が可能であり、平気で数十分の時間をつぶせる。駅構内が広いというもあるにせよ、観察を終えるのに40分も要してしまった()

 

 

 ベースプラザ(770m)に着く。駅からの谷沿いの道はまだ続いていて、西黒尾根や一の倉沢など屈指の登攀路が聳えているが、さすがにスルーである。ベースプラザからは谷川ロープウェイが動いていて、400m以上の高低差をショートカットできる。今回の計画では、ロープウェイの終点天神平(1320m)から、天神尾根を経由して山頂のトマノ耳(1963m)、余力があればその少し先のオキノ耳までのピストン、ということにしていた。無雪期のコースタイムは登りで二時間半ほど。距離的には決して無茶な計画ではない(だろう)が、そこは冬山、やはり体力の消耗はより激しいだろうし、天気にはいつも以上に過敏になる必要もある。また今回はロープウェイの下りの最終(16時)に間に合わす必要がある。だから、何があっても13時から13時半までがタイムリミットで、それ以降は即下山開始だな、と心に決めつつ、ロープウェイに乗った。

 

 天神平に着いた。ロープウェイの車窓から既に見えていたけれど、

               雪!

 実のところ、土合駅やベースプラザ付近の標高では、積雪を見出すことができなかった。谷川は日本海からの湿った北風がもろにぶつかる山々だからかなり異常事態だと言える。天神平ですら積雪40㎝という有様で降雪もなく、この年の異常な暖冬傾向を目の当たりとすることになった。だが、冬山初心者からすればこの上ない僥倖ではないか。この積雪ならラッセルもないだろうし、これはワンチャン登頂も夢ではない。こんなわけで若干有頂点になりながらも、準備を始める。のだが、……

 

 あれ、アイゼンってどうやってつけるんけ???

 

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私が購入したのと同じモデルのアイゼン。石鎚も見越して12本刃にした

 

 アイゼンとは、いわば冬山用のスパイクであり、登山靴の底に取り付けてアイゼンの刃を雪面に踏み込ませることで、グリップ力を高めて滑落を防止する、冬山のマストアイテムである。そのアイゼンの取り付け方が、わからない。Google先生の知恵を借りようとしたが、そこは○○モバイルの悲しい性。わりかし開けた稜線上のくせに圏外になってやがる。ヤバい、と焦り始めた。

ややあって、買ったときに店員さんが付け方をレクチャーしてくれてたことを思い出した。そうだ。こんな感じだ。アイゼンの形状を見れば、おおよそこんなものであろう。取り敢えずはこれでヨシ!そんなこんなで登り始めた。

 

 

 改めて周りを見渡してみると、やはりと言うべきか、単独行者は見当たらない。まず、天神平にはスキー場があって、若い男女が騒ぎながらスノボをしている。登山者たちはというと、ほぼほぼ中年単独のパーティーか、モンベルとかが主催しているツアーに参加しているやはり中年の連中である。何というか、こういう人気の山域にいると、街での人間模様がそのまま山でも反映されていて、ウェイな方々は山でも身内でウェイウェイやってるし、ぼっちは何処まで行ってもぼっちである。当然誰も私に話しかけてこないし、私もそれをいちいち期待することもない。

そうは言っても 未経験の冬山。できれば経験者に教えを乞いたいが、ガチ勢のパーティーに交渉するのは気が引けるし、ツアーのインストラクターに凸る度胸もない。例えば、ピッケルの使い方一つとっても、ヤマケイとかで情報取集しているとはいえ、確信が持てない。あるいは、ツアー連中がちょっとした斜面でロープを使って登っているのを見ても、そのロープ使いたいなぁ()とか、ロープなし身一つで登れんのかコレとか、不安は尽きない。そうは言っても、ここまで来た以上は逃げるのもアホらしい。それに、トレースはしっかりしているから、道迷いの心配もない。取り敢えずはこの先達たちの後を追おう、ということだけ考えた。

 

 

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谷川主脈の一つ、万太郎山

しばらくすると、ピークらしきに出た。地図で確認すると、天神山から天神尾根へと向かう道の途上であった。どうやらツアー客はこの辺で折り返しているようで、一気に人が減り、しかも行き交う人々はすべからくガチ勢感が溢れていた。ここからが本当の闘いって奴だろうか。そして、斜面やガスに遮られて見えなかったその先に、つヤマケイで何度か目にした白い峰が、折よく見えた。他の登山者が言うには万太郎山らしい。これが谷川か、と身震いした。この景色を目の前にして、程よく開けていた所を探し、軽い昼飯を取りつつ今後の予定を軽く考える。考えるのだが、、

この時すでに、13時20分!

そう、例の撤退開始時間になってしまっている。実は天神平に着いたのは大体10時20分なのだが、アイゼンの取り付けに手間取って11時20分、しかも、斜面が怖くて天神平周辺でボーとしたのもあり、実際の出発は11時40分である。にしても遅すぎる。そう、さらなる問題が発生していたのである。それは、

 

アイゼンが脱げる!

 

それも、二、三度とか、そういうレベルではない。何なら、四、五歩に一遍とかいうレベルである。確実に履き方に問題があるのは明白だった。しかし、斜面上ではそれを直すようなスペースもないし、後ろからも登って来るため、止まろうにも止まりずらい。そこまで積雪もないし、結局アイゼンを履かずにそのまま登っていた時もある。したがって、まずはこの脱げる原因を突き止めねばならないし、時間的制約を無視するにしても、登頂する気も全く失せていた。取り敢えず、脱げないようにしよう、そしていける所まで行こう、を方針とすることにした。

取り敢えず、アイゼンを脱いでみた。すると、アイゼンに左右があることを知った。これだ!と直感した。多分これが脱げる原因やなと直感し、左右を意識して履いた。そして、歩き始めた。中々脱げない。うん、これだ!行けるぞ!行けるぞ!

そう思って歩を進めると、下手に道が見えた。天神平からの最短経路であり、これが天神尾根の道だった。道幅も狭くなっている。というわけで、わけなく尾根道に合流した時だった。脱げた。付け直す。二歩歩く。また、脱げた。

この瞬間、何も解決していないことが分かった。

 

次第に、すれ違う人たちが増えた。多分山から降りてきているのだろう。今までは脱げても人が来ないから安心していた側面があったが、さすがにここまですれ違うと、さすがに肩身が狭い。一方通行の道路を反対方向に進んでしまい、進行方向を順守している大型トラックの運ちゃんに睨まれるような感覚である。どうせ山頂に行けることないし、それ以上にアイゼンの問題をどげんかせんといかん、という思いが強くなった。結局、14時18分、谷川の山容が綺麗に写せそうなスポットを見つけ、これを以て撤退を決めた。アイゼンはやはり脱げるので、雪も十分踏み固まっていたのもあり、登山靴だけで歩き、15時少し前、天神平のロープウェイ乗り場に着いた。

 

改めて、アイゼンを見てみる。すると、長さが変わるじゃないか。まあこれ自体には気づいていたが、動かないと思っていたピンの部分が動くではないか。そしてちゃんとピンで固定できるではないか。要は、今まではピンで固定していなかった分、長さが固定されておらず、結果すぐ脱げていたのではないか。

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アイゼン(クランポン)の取り付け方。

厳密には私のやつとはタイプが違うが、4番の長さ調整のやり方は同じであり、当初これを怠っていた。このため、アホみたいにアイゼンが脱げていたのだ。

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左手が谷川岳トマノ耳、右手には清水峠方面の稜線



 アイゼンを付け直したうえで、少し歩いてみる。案の定全然外れないし、しっかりとしたグリップ感がある。これならいける、と確信した。そうは言っても、もう時間的には無理だし、ビバークは現実的ではない。十数分後にはロープウェイに乗ることになるだろう。改めて、谷川の峰を見据える。天神平に来た時とは違って、ガスも晴れ、空の爽やかな青に雪の白と岩の黒が鮮やかだった。いわゆるVというやつで、天気が変わりやすい谷川にあっては登山日和な方だろう。それなのに、こんなヘマをやるとは惜しいことをした、と悔いた。はて、この山を再び登る日は来るのだろうか。そんなことを考えた。

 

 

ロープウェイに乗った。行は一人だったが、帰りの今回は50代後半くらいの夫婦と一緒だった。こういう時、往々にして気まずい沈黙が起こりがちだが、向こうが話しかけてきた。

 

「谷川行って来たんですか?私たちはスキーですけども」

「はい、でも初心者なんで全然進んでなくて。訓練と割り切って、今回は天神平周辺を周回してきました」

アイゼンの付け方が分からなかったとは言えず、多少話を盛った。

「いやぁ、一人で来るなんて大概ですな。ようやりますわ。若いってやっぱいいね」

「そうね、私たちには厳しいね。ところで今日はもう帰られるんですか。私たちは麓の湯檜曽温泉に泊まって、明日も滑ろうかなって思ってるの」

「いやぁどうしましょ、まだ決めとらんです。如何せん18切符なんで移動の自由は効きますからねー。まあ明日も暇ですけん、どっか温泉行くのもアリですなあ。」

これを言った時だった。

 

明日も登れるんやね?

 

今、そんなに疲労感もない。悔しさもあり、体も登りたがっている。メンタル、フィジカルの面で不足はない。実は元々の計画では翌22日に決行する予定だったが、今日21日の方が天気が良いということで、21日に変えたという経緯がある。だから、22日に問題がなさそうなら、行っても良いんじゃね、と思った。そんなわけで、こんな話を振ってみた。

 

「いやぁ、にしても天気良かったですね。もう少しガスるかと思ってましたよ。いい写真も撮れましたわ。明日もスキーに行かれるんだったら、明日も晴れるといいですね。」

「そうですね、今日ほどは晴れないみたいですけど、荒れるまではいかないみたい」

 

 

 

ベースプラザで彼らと別れ、土合駅まで戻った。例の階段を降り、下り列車に乗った。越後湯沢で降りた。やっと携帯の電波が繋がり、明日の天気を見てみた。曇りで、明白な西高東低というわけではないが、多少怪しいとは思った。等圧線の間隔も広く、多分吹雪くまではないとは思った。というわけで、この段階で、天気的に明白な問題があるとは判断しなかった。

越後湯沢は、沿線では数少ない街らしい街だ。コンビニで食糧の買い出しを行い、駅そばを食う。そして、暇潰しに散歩を始めた。行先はというと、ガーラ湯沢駅である。

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鉄ヲタどもにはもはや説明不要だろうが、この駅はガーラ湯沢というスキー場の営業に合わせて開設される冬季の臨時駅で、上越新幹線の車両が越後湯沢からそのままやって来る。両駅間は二キロほど。十分に散歩の範疇である。本来ならスキー客で賑わうはずだが、例の暖冬で越後湯沢ですら積雪ゼロ、したがってガーラスキー場自体営業停止に陥る始末。当然客はなく、時間的に日が落ちているため、もはや廃墟の雰囲気。駅の内部はスキー場らしく広く明るいが、まったく人がいないため、人類消滅的な映画の主人公の疑似体験にもなる。一応駅員はいるが、わざわざ歩いてくる鉄ヲタなどそういるものではなく、どっから来たんだと、およそ人間に投げかけているとは思えないような目つきで、こちらを見てくる。まあ乗り鉄的には、乗ったという事実さえあれば、どう思われようが別に構わないのだが。

 

 

 越後湯沢に戻った。19時になっていた。例年みたく雪があればさすがに宿探しの必要が出てくるが、今日に関してはその必要がないと判断した。上越線上りの水上行最終に乗った。しばらくして、列車は国境の元信号所に停まった。土樽駅である。ここで降りた。

暗くなってはいるが、例によって駅の観察から入る。この駅は、元信号所で、川端康成の『雪国』にも出てくる。駅舎は未だに木造だが、豪雪地帯というのもあり、それに見合った造りになっているな、と感心する。駅舎の入り口にはスプリンクラーがあってチョロチョロ流れていたが、肝心の融雪する雪は全くなかった。

 

さて、宿はというと、駅から徒歩ゼロ分のところにある。そんなに都合が良い宿があるかというと、正確にはない。正確に言えば、その宿は宿ではないが、宿とみなせばそれは宿である。Station Bivouac、要は駅寝である。

 

ここで野宿について少し語ろう。なお、私の定義では、住宅、宿泊施設、キャンプ場以外で仰向けになって寝ることを野宿としている。

私の野宿遍歴は大学に入ってから、要は今年からであるが(まったく自慢にならないが)、野宿への願望は中一からであった。思えば中学のころ、フリーターが野宿をしながら全国を放浪する本を好んで読んでいた。中学のころに比べたら大分過激さも低減したが、野宿願望が潰えたということは当たらない。第一、私がワンゲルに入ったのも、野宿に応用できそうなキャンプスキルを身につけ、最終的には理想の一人旅をやるためだった。もっとも、存外に山にドはまりして、そういう一人旅は多分できないだろうし、しないだろう。それでも、やはり野宿は手段としては全然アリである。やはり金がかからない。人がいなければ盗難等の危険はないし、個人的には場所を適切に選べば誰でもできるという認識である。まあこう言って実際にやる奴は、完全にこちら側の人間だろう。

この時、下沼駅、講義棟の渡り廊下、会津若松駅前の地下歩道、とある市町村の文化会館の軒先の四か所で野宿をやっていた。特に会津若松駅前の件で、度胸がついたように思う。まあ土樽は完全に山ん中で、人家もそうあるものではない。したがって、野宿としては非常にやりやすい。 

 

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 こんな風に適当にマットを敷いて、日記を書いたりして時間をつぶす。下りの最終が21時過ぎと遅いので、それまでは眠れない。最終が出ると、そろそろ寝ようかという気分になり、目を閉じる。しかし、待合室内部の電灯はついたままで、うざったい。消し方が分からず、諦めた。それと、電車は来ないとはいえ、駅のすぐ目の前に上越自動車道が走っていて、トラックの轟音がうるさい。とても眠れたものではない。一応目はつむっているものの、寝落ちできない感覚のまま、時間は過ぎていった。

 

 一時間ほどたっていた。今度はどこか寒くて眠れない。刺すような強烈な寒さではないけれど、外側からじわじわと体の体温を奪っていくような寒さだった。いくら暖冬とはいえ、気温は氷点下近くになっているのだろう。ふと、ワンゲルの鉄ヲタ仲間から聞いた、いつかの冬に厳冬期の大糸線無人駅で駅寝し、凍死した鉄ヲタの話を思い出した。さすがにそこまでの惨劇には至らないだろうと自分を落ち着かせた。そうは言っても、雪はないとはいえ、普通に体温が持ってかれる感覚は理解された。やはり寝るということは、動かないし荷物も持たないから、体力を消費する行為にもなりうる。まあ明日もあるし装備も人並みに揃えたんだから、ここは無理をする必要もない。

とりあえず、越後湯沢のコンビニで水筒に入れておいたお湯をタッパーに注ぎ、持ってきたミニチキンラーメンを軽く食いつつ、冬山対応のアウターのオーバー、高田馬場で買い叩いたアウターのズボンを着た。この気温なら、これを着て荷物を背負って歩く分には大げさだが、寝るうえでは役立つ暖かさだ。いい買い物をしたもんだ。これなら死なない。明日も十分にやってけるくらいに、熟睡できそうだ。そう確信し、今度はしっかりと寝落ちした。