年末の谷川岳③ 12月21日 ~錯誤と試行~

 

 

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土合駅名物の階段


2019年12月21日 8:37 長岡行の鈍行は暗闇の中の停車場に停まる。言わずと知れた、上越線土合駅の下りホームである。上越国境の山嶺を貫く新清水トンネルの真ん中にあるこのホームは、地下70m、462段の階段によって外界から隔絶されている。この長い階段を抜けて駅から30分ほど歩いた先に、谷川登山の拠点であるベースプラザがある。普通の登山者ならさっさと駅を後にするのだろうが、そこは鉄ヲタ。小学生時代からの憧れの駅に着くや否や、趣味の駅構内観察をせずにはいられない()しかも、なかなか観察のし甲斐があるのだ。

例えば、この駅の下りホームはもともとのホームの先に新しく付け足されたものだとわかる。新清水トンネルが単線トンネルだということを思えば、もともとのホームは本線から分岐した待避線上にあり、本数が多かった頃は、この駅で通過待ちをしていたのではないか。角栄よろしく上越新幹線が開通し、本数が減って待避線が不要となったために、かつての待避線上に新しくホームを新設して本線上にホームが接している現在の形になったのではないか、と軽く推測がつく。昔からの形を留めている駅ではこの手の推測が可能であり、平気で数十分の時間をつぶせる。駅構内が広いというもあるにせよ、観察を終えるのに40分も要してしまった()

 

 

 ベースプラザ(770m)に着く。駅からの谷沿いの道はまだ続いていて、西黒尾根や一の倉沢など屈指の登攀路が聳えているが、さすがにスルーである。ベースプラザからは谷川ロープウェイが動いていて、400m以上の高低差をショートカットできる。今回の計画では、ロープウェイの終点天神平(1320m)から、天神尾根を経由して山頂のトマノ耳(1963m)、余力があればその少し先のオキノ耳までのピストン、ということにしていた。無雪期のコースタイムは登りで二時間半ほど。距離的には決して無茶な計画ではない(だろう)が、そこは冬山、やはり体力の消耗はより激しいだろうし、天気にはいつも以上に過敏になる必要もある。また今回はロープウェイの下りの最終(16時)に間に合わす必要がある。だから、何があっても13時から13時半までがタイムリミットで、それ以降は即下山開始だな、と心に決めつつ、ロープウェイに乗った。

 

 天神平に着いた。ロープウェイの車窓から既に見えていたけれど、

               雪!

 実のところ、土合駅やベースプラザ付近の標高では、積雪を見出すことができなかった。谷川は日本海からの湿った北風がもろにぶつかる山々だからかなり異常事態だと言える。天神平ですら積雪40㎝という有様で降雪もなく、この年の異常な暖冬傾向を目の当たりとすることになった。だが、冬山初心者からすればこの上ない僥倖ではないか。この積雪ならラッセルもないだろうし、これはワンチャン登頂も夢ではない。こんなわけで若干有頂点になりながらも、準備を始める。のだが、……

 

 あれ、アイゼンってどうやってつけるんけ???

 

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私が購入したのと同じモデルのアイゼン。石鎚も見越して12本刃にした

 

 アイゼンとは、いわば冬山用のスパイクであり、登山靴の底に取り付けてアイゼンの刃を雪面に踏み込ませることで、グリップ力を高めて滑落を防止する、冬山のマストアイテムである。そのアイゼンの取り付け方が、わからない。Google先生の知恵を借りようとしたが、そこは○○モバイルの悲しい性。わりかし開けた稜線上のくせに圏外になってやがる。ヤバい、と焦り始めた。

ややあって、買ったときに店員さんが付け方をレクチャーしてくれてたことを思い出した。そうだ。こんな感じだ。アイゼンの形状を見れば、おおよそこんなものであろう。取り敢えずはこれでヨシ!そんなこんなで登り始めた。

 

 

 改めて周りを見渡してみると、やはりと言うべきか、単独行者は見当たらない。まず、天神平にはスキー場があって、若い男女が騒ぎながらスノボをしている。登山者たちはというと、ほぼほぼ中年単独のパーティーか、モンベルとかが主催しているツアーに参加しているやはり中年の連中である。何というか、こういう人気の山域にいると、街での人間模様がそのまま山でも反映されていて、ウェイな方々は山でも身内でウェイウェイやってるし、ぼっちは何処まで行ってもぼっちである。当然誰も私に話しかけてこないし、私もそれをいちいち期待することもない。

そうは言っても 未経験の冬山。できれば経験者に教えを乞いたいが、ガチ勢のパーティーに交渉するのは気が引けるし、ツアーのインストラクターに凸る度胸もない。例えば、ピッケルの使い方一つとっても、ヤマケイとかで情報取集しているとはいえ、確信が持てない。あるいは、ツアー連中がちょっとした斜面でロープを使って登っているのを見ても、そのロープ使いたいなぁ()とか、ロープなし身一つで登れんのかコレとか、不安は尽きない。そうは言っても、ここまで来た以上は逃げるのもアホらしい。それに、トレースはしっかりしているから、道迷いの心配もない。取り敢えずはこの先達たちの後を追おう、ということだけ考えた。

 

 

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谷川主脈の一つ、万太郎山

しばらくすると、ピークらしきに出た。地図で確認すると、天神山から天神尾根へと向かう道の途上であった。どうやらツアー客はこの辺で折り返しているようで、一気に人が減り、しかも行き交う人々はすべからくガチ勢感が溢れていた。ここからが本当の闘いって奴だろうか。そして、斜面やガスに遮られて見えなかったその先に、つヤマケイで何度か目にした白い峰が、折よく見えた。他の登山者が言うには万太郎山らしい。これが谷川か、と身震いした。この景色を目の前にして、程よく開けていた所を探し、軽い昼飯を取りつつ今後の予定を軽く考える。考えるのだが、、

この時すでに、13時20分!

そう、例の撤退開始時間になってしまっている。実は天神平に着いたのは大体10時20分なのだが、アイゼンの取り付けに手間取って11時20分、しかも、斜面が怖くて天神平周辺でボーとしたのもあり、実際の出発は11時40分である。にしても遅すぎる。そう、さらなる問題が発生していたのである。それは、

 

アイゼンが脱げる!

 

それも、二、三度とか、そういうレベルではない。何なら、四、五歩に一遍とかいうレベルである。確実に履き方に問題があるのは明白だった。しかし、斜面上ではそれを直すようなスペースもないし、後ろからも登って来るため、止まろうにも止まりずらい。そこまで積雪もないし、結局アイゼンを履かずにそのまま登っていた時もある。したがって、まずはこの脱げる原因を突き止めねばならないし、時間的制約を無視するにしても、登頂する気も全く失せていた。取り敢えず、脱げないようにしよう、そしていける所まで行こう、を方針とすることにした。

取り敢えず、アイゼンを脱いでみた。すると、アイゼンに左右があることを知った。これだ!と直感した。多分これが脱げる原因やなと直感し、左右を意識して履いた。そして、歩き始めた。中々脱げない。うん、これだ!行けるぞ!行けるぞ!

そう思って歩を進めると、下手に道が見えた。天神平からの最短経路であり、これが天神尾根の道だった。道幅も狭くなっている。というわけで、わけなく尾根道に合流した時だった。脱げた。付け直す。二歩歩く。また、脱げた。

この瞬間、何も解決していないことが分かった。

 

次第に、すれ違う人たちが増えた。多分山から降りてきているのだろう。今までは脱げても人が来ないから安心していた側面があったが、さすがにここまですれ違うと、さすがに肩身が狭い。一方通行の道路を反対方向に進んでしまい、進行方向を順守している大型トラックの運ちゃんに睨まれるような感覚である。どうせ山頂に行けることないし、それ以上にアイゼンの問題をどげんかせんといかん、という思いが強くなった。結局、14時18分、谷川の山容が綺麗に写せそうなスポットを見つけ、これを以て撤退を決めた。アイゼンはやはり脱げるので、雪も十分踏み固まっていたのもあり、登山靴だけで歩き、15時少し前、天神平のロープウェイ乗り場に着いた。

 

改めて、アイゼンを見てみる。すると、長さが変わるじゃないか。まあこれ自体には気づいていたが、動かないと思っていたピンの部分が動くではないか。そしてちゃんとピンで固定できるではないか。要は、今まではピンで固定していなかった分、長さが固定されておらず、結果すぐ脱げていたのではないか。

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アイゼン(クランポン)の取り付け方。

厳密には私のやつとはタイプが違うが、4番の長さ調整のやり方は同じであり、当初これを怠っていた。このため、アホみたいにアイゼンが脱げていたのだ。

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左手が谷川岳トマノ耳、右手には清水峠方面の稜線



 アイゼンを付け直したうえで、少し歩いてみる。案の定全然外れないし、しっかりとしたグリップ感がある。これならいける、と確信した。そうは言っても、もう時間的には無理だし、ビバークは現実的ではない。十数分後にはロープウェイに乗ることになるだろう。改めて、谷川の峰を見据える。天神平に来た時とは違って、ガスも晴れ、空の爽やかな青に雪の白と岩の黒が鮮やかだった。いわゆるVというやつで、天気が変わりやすい谷川にあっては登山日和な方だろう。それなのに、こんなヘマをやるとは惜しいことをした、と悔いた。はて、この山を再び登る日は来るのだろうか。そんなことを考えた。

 

 

ロープウェイに乗った。行は一人だったが、帰りの今回は50代後半くらいの夫婦と一緒だった。こういう時、往々にして気まずい沈黙が起こりがちだが、向こうが話しかけてきた。

 

「谷川行って来たんですか?私たちはスキーですけども」

「はい、でも初心者なんで全然進んでなくて。訓練と割り切って、今回は天神平周辺を周回してきました」

アイゼンの付け方が分からなかったとは言えず、多少話を盛った。

「いやぁ、一人で来るなんて大概ですな。ようやりますわ。若いってやっぱいいね」

「そうね、私たちには厳しいね。ところで今日はもう帰られるんですか。私たちは麓の湯檜曽温泉に泊まって、明日も滑ろうかなって思ってるの」

「いやぁどうしましょ、まだ決めとらんです。如何せん18切符なんで移動の自由は効きますからねー。まあ明日も暇ですけん、どっか温泉行くのもアリですなあ。」

これを言った時だった。

 

明日も登れるんやね?

 

今、そんなに疲労感もない。悔しさもあり、体も登りたがっている。メンタル、フィジカルの面で不足はない。実は元々の計画では翌22日に決行する予定だったが、今日21日の方が天気が良いということで、21日に変えたという経緯がある。だから、22日に問題がなさそうなら、行っても良いんじゃね、と思った。そんなわけで、こんな話を振ってみた。

 

「いやぁ、にしても天気良かったですね。もう少しガスるかと思ってましたよ。いい写真も撮れましたわ。明日もスキーに行かれるんだったら、明日も晴れるといいですね。」

「そうですね、今日ほどは晴れないみたいですけど、荒れるまではいかないみたい」

 

 

 

ベースプラザで彼らと別れ、土合駅まで戻った。例の階段を降り、下り列車に乗った。越後湯沢で降りた。やっと携帯の電波が繋がり、明日の天気を見てみた。曇りで、明白な西高東低というわけではないが、多少怪しいとは思った。等圧線の間隔も広く、多分吹雪くまではないとは思った。というわけで、この段階で、天気的に明白な問題があるとは判断しなかった。

越後湯沢は、沿線では数少ない街らしい街だ。コンビニで食糧の買い出しを行い、駅そばを食う。そして、暇潰しに散歩を始めた。行先はというと、ガーラ湯沢駅である。

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鉄ヲタどもにはもはや説明不要だろうが、この駅はガーラ湯沢というスキー場の営業に合わせて開設される冬季の臨時駅で、上越新幹線の車両が越後湯沢からそのままやって来る。両駅間は二キロほど。十分に散歩の範疇である。本来ならスキー客で賑わうはずだが、例の暖冬で越後湯沢ですら積雪ゼロ、したがってガーラスキー場自体営業停止に陥る始末。当然客はなく、時間的に日が落ちているため、もはや廃墟の雰囲気。駅の内部はスキー場らしく広く明るいが、まったく人がいないため、人類消滅的な映画の主人公の疑似体験にもなる。一応駅員はいるが、わざわざ歩いてくる鉄ヲタなどそういるものではなく、どっから来たんだと、およそ人間に投げかけているとは思えないような目つきで、こちらを見てくる。まあ乗り鉄的には、乗ったという事実さえあれば、どう思われようが別に構わないのだが。

 

 

 越後湯沢に戻った。19時になっていた。例年みたく雪があればさすがに宿探しの必要が出てくるが、今日に関してはその必要がないと判断した。上越線上りの水上行最終に乗った。しばらくして、列車は国境の元信号所に停まった。土樽駅である。ここで降りた。

暗くなってはいるが、例によって駅の観察から入る。この駅は、元信号所で、川端康成の『雪国』にも出てくる。駅舎は未だに木造だが、豪雪地帯というのもあり、それに見合った造りになっているな、と感心する。駅舎の入り口にはスプリンクラーがあってチョロチョロ流れていたが、肝心の融雪する雪は全くなかった。

 

さて、宿はというと、駅から徒歩ゼロ分のところにある。そんなに都合が良い宿があるかというと、正確にはない。正確に言えば、その宿は宿ではないが、宿とみなせばそれは宿である。Station Bivouac、要は駅寝である。

 

ここで野宿について少し語ろう。なお、私の定義では、住宅、宿泊施設、キャンプ場以外で仰向けになって寝ることを野宿としている。

私の野宿遍歴は大学に入ってから、要は今年からであるが(まったく自慢にならないが)、野宿への願望は中一からであった。思えば中学のころ、フリーターが野宿をしながら全国を放浪する本を好んで読んでいた。中学のころに比べたら大分過激さも低減したが、野宿願望が潰えたということは当たらない。第一、私がワンゲルに入ったのも、野宿に応用できそうなキャンプスキルを身につけ、最終的には理想の一人旅をやるためだった。もっとも、存外に山にドはまりして、そういう一人旅は多分できないだろうし、しないだろう。それでも、やはり野宿は手段としては全然アリである。やはり金がかからない。人がいなければ盗難等の危険はないし、個人的には場所を適切に選べば誰でもできるという認識である。まあこう言って実際にやる奴は、完全にこちら側の人間だろう。

この時、下沼駅、講義棟の渡り廊下、会津若松駅前の地下歩道、とある市町村の文化会館の軒先の四か所で野宿をやっていた。特に会津若松駅前の件で、度胸がついたように思う。まあ土樽は完全に山ん中で、人家もそうあるものではない。したがって、野宿としては非常にやりやすい。 

 

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 こんな風に適当にマットを敷いて、日記を書いたりして時間をつぶす。下りの最終が21時過ぎと遅いので、それまでは眠れない。最終が出ると、そろそろ寝ようかという気分になり、目を閉じる。しかし、待合室内部の電灯はついたままで、うざったい。消し方が分からず、諦めた。それと、電車は来ないとはいえ、駅のすぐ目の前に上越自動車道が走っていて、トラックの轟音がうるさい。とても眠れたものではない。一応目はつむっているものの、寝落ちできない感覚のまま、時間は過ぎていった。

 

 一時間ほどたっていた。今度はどこか寒くて眠れない。刺すような強烈な寒さではないけれど、外側からじわじわと体の体温を奪っていくような寒さだった。いくら暖冬とはいえ、気温は氷点下近くになっているのだろう。ふと、ワンゲルの鉄ヲタ仲間から聞いた、いつかの冬に厳冬期の大糸線無人駅で駅寝し、凍死した鉄ヲタの話を思い出した。さすがにそこまでの惨劇には至らないだろうと自分を落ち着かせた。そうは言っても、雪はないとはいえ、普通に体温が持ってかれる感覚は理解された。やはり寝るということは、動かないし荷物も持たないから、体力を消費する行為にもなりうる。まあ明日もあるし装備も人並みに揃えたんだから、ここは無理をする必要もない。

とりあえず、越後湯沢のコンビニで水筒に入れておいたお湯をタッパーに注ぎ、持ってきたミニチキンラーメンを軽く食いつつ、冬山対応のアウターのオーバー、高田馬場で買い叩いたアウターのズボンを着た。この気温なら、これを着て荷物を背負って歩く分には大げさだが、寝るうえでは役立つ暖かさだ。いい買い物をしたもんだ。これなら死なない。明日も十分にやってけるくらいに、熟睡できそうだ。そう確信し、今度はしっかりと寝落ちした。

 

 

年末の谷川岳② 11月30日

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紅葉の大倉尾根



 今回の記事では、前回に引き続き、谷川に行くまでの経緯を書き記そうと思う。前置きが長くて申し訳ないが、外せない出来事が多々ある時期でもあった。

 

 

 

 2019年11月30日 8:30AM 小田急渋沢駅

 私がなぜこんなところにいるのかと言えば、冬山を見据えつつ、久々の山で肩をならすためである。選んだのは丹沢の塔ノ岳。渋沢駅からは神奈中バスで大倉まで行き(210円)、大倉尾根を経由して山頂へと至る、片道7kmほど、高低差1200mほどの鉄板コースである。この山は、実は二度目である。では初回はというと、5月の新人錬成山行①である。要は、ワンゲル部員として初めて登った山である。如何せん私の大学は横浜市内にあるため、横浜から近い縦走可能な山として、弊ワンゲルも丹沢には長年お世話にになっているのだ。その丹沢で、多少は歩荷らしいことをして、体を山に慣らそうというのが今回の山行の目的だった。

 

 

 とりあえず渋沢駅のコンビニで水2Lを四本調達。総重量は15㎏前後といったところか。9時ごろ、大倉のバス停から歩を始めた。

 

 大倉の登山口に入ってしばらくの間は、木々に囲まれた単調な登り道である。道は狭めだが、日陰で涼しく快調に飛ばす。歩いているうちに、新錬①では15分に一遍水を飲まんと苦しかったな、とか、あいつ水を500mlしか持って来んで撃沈しとったな、といった風に、新錬①の思い出が蘇ってきた。そう思うと、こうやって一人山に登っていることに寂しさを感じないでもない。

 

 かれこれ一時間ほど歩くと、見晴茶屋の前を通過する。ここから本格的に大倉尾根の長い階段を登っていくことになる。道自体はよく整備されているが、距離も長く標高も上がってくるので、徐々に体力を奪われていく。私自身、駒止茶屋までは軽快に巻きペースで駆け上がってきたが、その後はダウンしてダラダラ歩いた。結局、花立小屋まで来る頃には、コースタイムとほぼ変わらない有様であった。しかも、花立を過ぎてから急に足が痛み始めた。人生初の肉離れだった。そんなこんなで余計ダラダラ歩く羽目になり、12時半になってやっと塔ノ岳山頂に着いた。

 

 山頂に着くと、昼飯に忍ばせたおにぎりとカレーパンを頬張りつつ、山頂からの景色を楽しむ。やはり、丹沢の濃い緑の山々の先にある青々とした富士山は、新錬①のときと変わらず美しい佇まいである。富士の反対側に目を向ければ、スカイブルーの相模湾、それに沿うようにして延びる伊豆・三浦そして遠く房総の半島の群を眼下に収めることができる。時期もあって例えば大山あたりは雪化粧しており、やがては挑むであろう雪山への想像を膨らませて、雪山の頂を踏んでみたいという思いに駆られる。その一方、無雪期の塔ノ岳ごときで足を痛める程度の人間が冬山に身を置いて大丈夫だろうか。ペース配分といいフィジカル面の強化といい、冬山に行く前に乗り越えねばならない課題が多すぎる。そんなわけで、下山時はひたすら今回の山行について脳内反省会を行い、今後の練習計画の方針を軽く考えるなどした。

 
 

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塔ノ岳より望む富士山

 

  だが、この日はまだ終わらない。実はワンゲルの追いコンがあるのだ。山の後で自宅に戻る暇がなかったので、直行である。当然、登山ウェアのまま、馬鹿デカいザックを背負って。まあこんな格好で行ってもいちいち目くじらを立てて文句を言う奴がいないのも弊ワンゲルらしい。追いコンというと、部によっては一流ホテルを貸し切ってスーツ着用がマスト、会費もうん万円というところもある(らしい)が、弊部はというと、いかに費用をケチるかに執心している節があり、今年は横須賀のやっすい古民家を借りて、一通りの儀式を軽く済ませたのちは、適当に酒を飲んだりしょうもない雑談をしたりするだけである。まあいかにもテキトーな人間が集まりがちなワンゲルらしい雰囲気であり、このくらいの雰囲気がちょうどよいのだ。

 

 まあ実をいうと、山の後も久里浜にちょっとした用事があってそこに寄ってから追いコン会場に行ったので、会場入りした時既に21時を回っていた。事前に言ってあるとはいえ、当然大遅刻である。とりあえず古民家の窓を不作法にドンドンと叩いて、存在を認識させる。ややあって、お前かー、となじみのある先輩の声。戸を開けてもらい、室内に入る。お前なんでその恰好や、と即行で突っ込まれ、一気に部員の視線を浴びる。そのうち四年生の先輩が、コイツ誰や、と言う。弊部では、三年の追いコンを以て現役の活動から退くため、彼らとの直接的な接点があるわけではない。そんなわけで三年の現役主将が音頭を取って自己紹介する場を設けてもらった。

 

主将 「やっと来ました、○○です。将来のエース候補です。今日も丹沢に行ったように、一年ながら活動的な男でして、今後を期待できそうな男です。なんでも今年は冬山をやるそうです。まあ詳しいことは本人からどうぞ。」

 

 バレてる…!!しかも全員に…

 

 一瞬ですべてを察した。次期主将が現役主将に冬山の件を話したのだろう。私としては内密にしてほしかったが、よくよく考えれば、やはりワンゲルという組織としては内密のままにしておくことは難しいのだろう。いずれにせよこうして部員の前で話す場を設けて貰った以上、もう隠し通すことは出来ないだろうと分かった。一通りの自己紹介したのち、この件について話すことにした。

 

  

 冬山の件ですけども、年末を中心にやっていきたいと考えています。まずは群馬の赤城山、そして愛媛の石鎚山に行きたいと思います。とりあえず今のところ、今年の冬はこの二座以外の冬山をやることは考えていません。今日はこげん恰好をしとりますが、冬山を見越して久々に塔ノ岳に行ってきて、歩荷らしいことをしてきました。今後も継続的にとレーニングをやっていきたいと思います。

 まあ三年にはお世話なりましたし、最後の最後まで心配をかける羽目になりましが、無事帰ってきて今後のワンゲルの運営の一助となるよう頑張りたいと思います。一・二年については、まあ今は好き勝手やらせてもらってますが、春になって雪が解けたらまた山に行きましょう。まあ、今後ともよろしくおなしゃす!

 

 

 全員から拍手を浴びる。素直に気持ちが良いのは確かだ。四年からは、これで石鎚行けたら将来の主将やな、との声も聞こえた。同期からも、お前が冬山っちゃびっくりだが頑張れよ、と言われた。多少リップサービスもあろうが、言われて嬉しかった。だが、三年の主将はどう思っているのだろうか。あの説明で満足しているのだろうか。そう思っていると、案の定呼ばれた。紙コップにウイスキーを注がれ、まあ飲めよと目くばせを受けつつ、冬山の件もっと詳しく聞かせて、と言われた。

 

 一応、赤城・石槌の地図はザックに忍ばせていた。その地図を見せながら、コースや前泊等、装備などをどうするかなどを説明した。ほかの同期の連中は酒や雑談に現を抜かし、この話を聞いているのは専ら三年の先輩であり、二年・四年の先輩の一部も混ざっていた。ややあって、主将が口を開いた。

 

 「お前が冬山をやり始めるとは思わんかったよ。まあはっきり言って心配ではあるよ。俺自身本格的な冬山に行ったことはないし、ここ十数年はワンゲルとして冬山で活動した実績もない。だから、お前に具体的なアドバイスを送れないんだ。

 でも、お前が行くって言うなら、俺は止めはしない。お前がやりたいって言うなら、俺はそれを止めることは出来ない。まあ、うちの高校(の山岳部)は冬山には行かなかったけど、××(二年の先輩)なら高校の時初春の岩手山に行ったことあるって聞いたし、聞いてみたら?」

 

 否定されなかった!

 

 驚きの方が大きい。勿論、大分心配されたのは確かだったが、明確に行くな!と言ってきた人は皆無だった。夏の北アルプスで同じパーティを組んだ先輩も、

 

 「実は、お前を槍・穂高に連れていくか、相当迷ったんよ。スタミナがあまりなさそうなのは薄々分ってきていたし、実際北穂高山荘で熱中症気味になるわで、世話するのも大変やったんよ。まあ、それでも連れて行ったおかげで、こうやって冬山に行くとか言い出したんやろうし、お前を危険に晒したくないから心配ではあるけど、山にハマってくれるのは嬉しいよ。行くってなら、応援するぜ。」

 

 

 ただただ嬉しかった。大げさに言えば、ワンゲルの組織の構成員という枠組みを超えて、純粋に一人の登山者として認められた心地がした。仮に事故ったら、組織としてのワンゲルにも責任追及の目が向けられ、何らの不都合を部全体に与えるに違いない。そうしたリスクを背負ってまで、私の冬山挑戦を認めてくれたのは、嬉しかった。それも、三年の先輩だけでなく、新執行部代の二年からも賛同を貰えたのも大きい。しかも、新執行部代の一部も、私の冬山行に一緒に参加したいと言ってきた。単独行を前提としてきたというか、単独行しか道はなしと信じていた私にとって、協力者を得られたことはとても大きかった。結局のところ、実際には単独行とはなったものの、以前の想定とは違い、秘密裏にコソコソと準備する必要もなくなった。こうなれば、もうやってやろうという気持ちが固まった。こうして、決意新たにしたところで、同期のもとに行き、そこからは他の連中と同様に暴飲暴食の限りを尽くし、先輩の元カノの話で大いに盛り上がって楽しんだ。

 

 

 

 

 ともあれ、12月になった。これからは冬山に向けた本格的な準備である。

 

 まず1日には、冬山の救急医療の講演のため青学に行った。昔はここで試験監督のバイトをしたこともあったので、懐かしかった。如何せん予備知識に乏しかったため、また前夜のオールのため、中々頭に入ってこなかったが、冬山での緊急対応に関する知見を多少なりとも深めることができたと思う。講演後は山手線で高田馬場に行き、入部以来(横浜店で)お世話になっているカモシカスポーツという登山用具店の本店に行き、そのアウトレットで用具の一部を買い叩いた。DESCENTEの冬山用のハードシェルのズボンを五千円(原価@27,000+税)くらいで仕入れられたのは、よっしゃ!という気分である。

 

 翌週には、ピッケルとアイゼンを購入した。前者が@13,000+税、後者が@19,000+税であった。服やら食い物やらには対して金を掛けなくとも、登山用具には湯水のごとく大金を投入してはひもじい思いをするのは、山男の常である。実際、この時点で、預金残高が一万を割った。勿論、生活のこともあるから、毎月20日の親の仕送り及びバ先の給与振り込みを待たねば、これ以上の買い物は出来ない。結局20日にの金曜に、十万ほど散財して、モンベルやらユニクロやらで衣類を中心に登山用具を揃えたが、谷川の決行日が翌21日であるから、無茶苦茶というより外ない。にしても、この時の振り込みでは、親戚一同からのお年玉と成人祝いが前払いされていたからよかったものの、さもなくば、財政破。綻していただろう。

 

 

 こうした装備面の準備だけでなく、知識・体力面の準備も進めた。とりあえず、図書館に通っては、我々のバイブルである『山と渓谷』を読み漁り、冬山特集やトレーニング法などの項はコピーして頭に入れた。気象学の本を山との関連で読みながら、危険な天気の兆候などを知った。遭難事例に関する本を読んでみたり、新田次郎に傾倒するなどした。バイトなどもあり、専ら土日が中心ではあるが、ランニングをしてみたり、体育館のトレーニング室を(勝手に)使ったりもした。大抵は図書館閉館後も部室に延々籠って前述の本たちを読み、暗くなってからそうした運動を開始するのが常だった。だから、南通門出るころは既に22時というのはザラだった。まあ正しくつけ刃の知識でしかないが、まあ当時を振り返れば、そういうことをすることでしか不安を落ち着かせることができなかったのろう。

 

 

 ともあれ、時は12月20日、23時。

 荷物は全部ザックに詰め込んだ。

 いよいよ明日が本番である。

 

 下手すると今日が最後の晩餐かもしれない。そういうわけで、あらかじめスーパーで買っておいた好物の合鴨ロースのブロックを、薄く切って食った。食費をケチりまくていた時期なので、久々の”奢侈品”であった。やはり、うまい。また食いたいと思いつつ、床に就いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

年末の谷川岳① 逡巡

 


 

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ついに来てしまった…

 上越線で水上まで来たとき、改めて遠くまで来たことを感じた。いくら19年度の冬が暖冬といえども、ここまで来ると、車窓の山々も白く化粧づく。平野の九州人が滅多に見ることがない、白銀の世界がそこにはあった。水上駅周辺でさえ全く積雪がなかったことには軽く拍子抜けしたが、それでもあの山にひとり踏み入れるのかと思うと、身震いがした。そう。いまから冬の谷川岳をめざすのだ。

 

 

 しかし、まあ計画段階からして無茶苦茶な登山だった。第一、前述したように九州人だから、そもそも雪に慣れがあるわけではない。また、登山経験も体力もそんなにあるわけではない。山自体は高校時代に友人と月1くらいのペースで行っていたが、せいぜい400~800mほどの低山ばかりだった。大学に入ってワンゲルに入り、金峰山北岳、そして槍ヶ岳穂高岳などに行かせてもらったとはいえ、元々体力には自信の無い方だった。そして最大の問題点は、同行者がいない点だ。

 

 そもそも、うちのワンゲルは冬山には行かないことを前提としている。当然金がかかるため誰も行こうとしなかったというのはあるだろうが、代によっては現役時の冬山を禁止していた時代もあったらしい。こんな状況では、部内から同行者を求めること自体無理な話であった。

 

 私自身いつから冬山に行こうと思い始めたのか、明瞭な記憶はない。ただ、9~10月にかけては山から離れてしまい、そのために槍・穂高縦走の記憶が蘇って山に行きたくなり、しかもそれがやたらレベルの高い方向に進んでしまったのだろうか。あるいは、単に冬山に行く自分に自惚れたかったのだろうか。多分両方だろう。とにかく、11月の中旬ごろには、冬山に行こうかなあとおぼろげに決意した。そして、その到達目標を、

       石鎚山

に決めた。やはり、西日本最高峰(1982m)というのが大きい。それだけで征服せねばならぬ対象に思えた。また、久々に岩場をやりたかったのもある。しかし、さすがにいきなり石鎚はヤバい。そこで、石鎚の前哨戦として、関東の山を攻めることにした。いろいろ思案した結果、

       赤城山

に決めた。そう、この時点では、谷川に行こうなどとは考えていなかった。否、当初は考えすらしなかった。谷川はヤバそうというイメージが強く、谷川よりは幾分易しめな赤城に行こうというのが肚だった。それでも谷川に行ったのは、やはり19年度の暖冬のによる部分が大きい。二週間前になっても定点観測のカメラにも積雪は認められず、中期の天気予報を見ても積雪の可能性を感じない。このあたりから、赤城では訓練にならんと考え始め、谷川を検討し始めた。そして、赤城の積雪が望めなくなり、一週間前ごろには谷川アタックを決めた。だがこのことは、まだ先の話である。

 

 

 実のところ、冬山に行くと決めてから、次第に不安に苛まれるようになった。そもそも夏山登山でさえ体力的にギリギリだったし、槍・穂高も晴天だったからよかったものの、少しでも天気が崩れれば滑落の危険も高い。雪庇やホワイトアウトといった冬山特有の問題もある。そしてこれらを一人で対処しなければならない。こうしたプレッシャーが次第に重くのしかかってきたのである。そして、このことをワンゲルの山仲間に言うこともで出来なかった。ワンゲルの連中は私の体力は大したことはないことを知ってるし、全力で止めに来るだろう。冬山で事故られれば、それはワンゲルという組織の問題になりかねず、まして事故る可能性の高い初心者一年生を放っておくとは到底思えない。そんなわけで、高校の友人だけにこの件いついて話し、彼に遺書を預けようとも、一時は本気で考えた。

 

 しかし、やはり部員に言わないのはまずいと思った。何だかんだ世話になっとるし、このまま秘密を秘密のままにすることは、私の性質からして無理だと思ったのもある。そこで、次期部長の先輩に伝えることにした。彼も私と同様に山は大学からだし、彼自身も冬山に興味がないでもないと言っていた。実際彼に話すと、お前がか、意外やな、でも良いんじゃない、と言われた。悪い感触ではなかった。とりあえず、私としてはワンゲル部員にこの件を伝えられたことにほっとした。そしてこの日を以て、私は冬山への挑戦を明確に決意したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに

 はじめまして。このブログでは、これまでの自分の一人旅の記録などを中心に、徒然なるままに書いていこうと思います。登山や乗り鉄ネタが中心です。皆様のちょっとした気の慰みになれたら嬉しいです。どうぞよろしく。