国内ひとり西遊記 ③石鎚山(下) 天狗岳

 

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弥山側から見た天狗岳への稜線

 


夜明峠の付近は開けた地形で、道の脇に寄れるほどの道幅があったのは幸いだった。痛みだした足を思って、一時停止することにした。この痛み、丹沢の大倉尾根で経験した痛みと同じ感触だった。しばらく休むことにした。

 

その間、追いコンの時に先代の主将とした雑談を思い出していた。その日に行った丹沢塔ノ岳の話になり、積雪状況などを聞かれた。そののち、花立小屋を出てから、もしかして人生で初めての肉離れを起こしたことを話した。すると主将は、

 「勿論個人差はあるんだろうけど、一回肉離れを起こすと、肉離れしやすくなることもあつからね。ほら、Sだってそうだろ?笑」

Sとは、私のワンゲルの同期である。初っ端の新錬の丹沢山にて肉離れを起こし、途中撤退。その後の新錬では、漢方薬を携帯するようになったのだが(50錠6,000円とかいうよく分からんぼったくりみたいな価格も当然ネタにされた)、肝心の鳳凰三山での夏合宿で漢方薬を忘れ、やはり肉離れを起こし途中撤退。その他様々なしょうもないやらかしをしでかしており、同期内でも有数のネタ枠(戦犯)である。

 「まあ、今のは冗談だけどw。まあお前も本格的に縦走してた時期から大分ブランクがあいているだろうし、その辺が今日の(塔ノ岳)で肉離れを起こした一因かもね。」

 

 

改めて思い返すに、たしかに、むべなることだと思った。そして、先輩が正しいとすれば、肉離れをしやすい状況下で冬山に行くことになる。それは怖かった。怖かったから、できる限りのトレーニングはしたつもりだった。通学時間やバイトの時間もあり、うまく時間が取れないことも多々あったが、そもそもそんなに体力がある方ではなかったが、それでも、週に20㎞程度は走ることを目標に、大学周辺の坂を走った。谷川だって色々あったけど、二日かけて登頂したじゃないか。ケガもなく。すべては、西日本の頂を目指して。ある程度自信を持ってここまで来たというのに、答えはこれなのか。

多分、肉離れを起こした原因はさっきの試しの鎖にある。あそこで思った以上に力み、足に負担をかけすぎたのが原因だろう。大体、山頂に立つのが目標じゃなかったのかよ。なんで途中でしなくてもいい寄り道をして、体力も消耗して。しかも、時間的にも大分押しているじゃないか。馬鹿なことをしてしまった…

……何だかんだここは愛媛だ。今引き返せば、松山に19時ごろには着くだろう。そうすれば、松山港を出る小倉行の夜行フェリーにも乗れ、明日の今頃には福岡の実家にも帰れるはずだ。家族、友人の顔が浮かんだ。年の瀬で忙しいだろうけど、ちゃんと迎えてはくれるだろう。それに、撤退は敗北だろうか。七月の新錬3で、南ア北岳直下の肩の小屋に泊まったとき、翌朝、先輩がすぐそこの山頂を無視してエスケープしたことが、OBの信頼を勝ち取ることに繋がり、執行代の株が上がったという話も思いだしていた。ここで事故ったらどうなる。すべてを自力救済で対処せねばなるまいが、そんな力量も装備もあるって果たして言えるのだろうか。仮にビバークとでもなれば、しかも風雪に襲われたら。冬山で遭難して生きて帰れるだろうか。仮に滑落でもしたら、事故の兆候が見えていたのにそれを無視していくのは、なんとも愚かしいことではないか。撤退とて名誉ある撤退なのだぞ。しかし、しかし…

 

 

五分ほど一時休止していた。水をちょびちょび飲みつつ、行動食を食べながら、心を落ち着かせた。ザックをゆっくり持ち上げ、靴のつま先を南方に向けた。ここまで来たら、限界になるまでやろう。まだいける。そうだ、どうせ今日は旅館に泊まるのだ。時間もそこまで気にする必要もないではないか。爆弾が括り付けられているように感じる足を思って、歩幅を狭めるよう意識しながら登り続けた。

 

 

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休憩地点。簡易トイレや避難小屋もある。

しばらくして、分岐路が見えた。土小屋・面河渓方面だった。また、立派な鳥居も見えた。かつて二の鎖小屋という小屋があった地点である。一応幕営地になってて、トイレも置いてある主要地点である。多分この鳥居は、石鎚神社・頂上社の入口ということであろう。時間は12時55分。当初では、16時下山を見越して13時半撤退開始と決めていたから、ここは休まず行きたかったが、そんな自主規制取っ払ってしまえと、飯休憩を入れることにした。

我ながら、もう少し料理のレパートリーを増やさんといかんとは思うものの、やはりα米に頼りがちである。今日はモンベルのガーリック風味のリゾッタをいただくことにしたが、入れるお湯の基準線が見えづらく、倍近く入れてしまう。それでも、ちゃんと汁に味が出ていて、これはこれで旨い。飲み干すようにして平らげて、ふうっと息をつく。

すると、6人くらいのパーティが下山してきた。谷川と違ってこの山ではそもそもすれ違いすら少なかったし、大抵単独行者ばかりだったから、おやっと思った。それに、……若い。

これは、と思い話しかけてみた。聞けば、岡山大学の山岳部だそうだ。こちらも一通り自己紹介してどんな山に行ってるとかいう話をした。部員の顔を見ると、我々同様陰キャっぽい風貌で親近感を感じさせる人もいれば、髪を真っ赤に染めた人もいる。山岳サークルといえど、構成員の内容はうちとは毛色が全然違うものだから、面白いものだ。

 岡大の彼らは、他の登山者は中年夫婦のパーティ一組だけであること、これから出現する鉄網状の階段にアイゼンの刃が挟まって歩きづらかったことを教えてくれた。まあ頑張ってください、と残して成就社の方へ去って行った。彼らは親切だった。同時に、みんなで冬山ができる彼らが少し羨ましかった。まあ冬山はやらないと、新歓の段階で宣言していたのに勝手に行き始めたのだから、単独行にならざるを得ないのは必然なのだが。二の鎖小屋跡を出ようとすると、例の中年夫婦が降りてきた。軽く挨拶を交わし、写真を撮って貰った。やはり、セルフタイマーで撮るより画質が良い。

 

 ここから先は、鎖場が二つ連続する。小屋跡の前に一の鎖、小屋跡の先に二の鎖、三の鎖があるわけだ。無雪期ならそのすべてにアタックしていただろうが、さすがにスルーをかました。代わりに巻き道があるが、この巻き道というのも、もともと岩の斜面に沿うように金網の鉄階段がかけられたものであり、疲労感はないが、如何せん左手は崖だ。しかも、岡大山岳部が指摘したように、金網にアイゼンの刃が食ってしまう。いつバランスを崩すか分からないため、かなり慎重にならざるを得ない。

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アイゼンの刃を食う地獄の鉄階段。個人的には、踊り場の部分が最悪だった。

 

 私がなぜこんなに怖がるのかというと、実はここから滑落したと思われる遭難者の動画を、YouTubeで見たからである。当時、冬山の遭難に関していえば、ニコ生の主が富士山で滑落する事故があり、その滑落動画がYouTubeにでていたので、一応目を通していたのだが、その関連動画としてこの石鎚での遭難動画が出てきた。(興味がある方は、「【滑落事故~救助まで】 2018年3月 石鎚山登山」を参照されたい)状況からして、間違いなくこのあたりだろう。動画は2018年3月と思いっきり残雪期だし、状況が明らかに似ている。まあ装備は石鎚をやるにしては十分な装備を買いそろえたつもりだったし、慎重にやれば滑落しない自信はあった。登山道が斜面側だったのもあり幾分恐怖も和らいだ。しかし、アイゼンの刃が食うたびにヒヤヒヤが止まらない。下がスルーになっているから、アイゼンを付け直すたびに断崖が見えるのもまた(悪い意味で)ポイントが高かった。

 

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左手に石鎚山頂上荘

休憩地点から30分くらい歩いただろうか。左手に石積みが見えた。明らかに天然物じゃない、人工物だ。だとすると?少し歩くと、なんか新しめのでっかい建造物と階段。大学のAVルームに置いてあった深田久弥日本百名山の動画が古すぎて、そのイメージに引きずられ一瞬何だか分からなかったが、うん、頂上山荘だ!谷川岳肩の小屋同様、冬季休業しているけれど。石段を上がると小さな祠みたいなものがあり、その手前に「国定公園 四国霊峰 石鎚山」の看板。時計はおおむね二時を指していた。ついに来た。弥山だ!

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弥山山頂。奥に頂上社の拝殿

まあ、とんでもないガスに囲まれていて眺望どころではない。新錬二で行った金峰山よりも霧の程度は酷かった。それでも、石鎚神社の頂上社があるのでここでお参りをし、一応の目的は果たせたのだなと胸をなでおろす。ああ、これでこれまでの足跡に思いを馳せながら、色んな人を思い浮かべる。

まず、ワンゲルの部員一同。特に先代の主将、冬山に乗り気だった一個上・同期。北八ケ岳に誘ってくれた四年の先輩。行きつけの登山用品店の顔見知りの店員。(余談だが入部以来お世話になっていて、彼のアドバイスを受けてアイゼン・ピッケルを購入した。夏合宿では槍ヶ岳の山頂で遭遇。仲間と北鎌尾根を登攀していた模様。なお、冬山どこ行くのと聞かれ、石鎚と言うと、彼も夏に面河渓・土小屋から行っていたらしく、この辺のアドバイスも頂いた)東大駒場祭で会った神社研究会の学生。谷川岳ロープウェイで会った中年夫婦。吹田の友人。岡大山岳部の方々。思い返せば、一人旅と言えど、色んな人との出会い・交流があったものだ。

 

 

時計は二時を少し過ぎていた。普通ならここで引き返すというのが筋であろう。だが、この時の異常心理は、登山者なら当然の理性すら吹き飛ばしていた。私の中で次なる行先は成就社・白石旅館ではなく、天狗岳に書き換えらていた。重いザックは神社の祠の傍らに置いておき、弥山の積雪状況からピッケルも不要と判断した。主将の許可を得て部室から拝借したヘルメットを装着し、ポッケには最低限の行動食を入れ、防寒手袋を装着し、身一つで天狗岳への稜線へ向かった。

 

元々の計画では、天狗岳は行けそうだったら行く、くらいの気だったはずだ。それでも今回行ったのは、西日本最高峰に立ちたいという執念というかエゴ、そして旅館に泊まるという安心感だろう。四国にいて東京より日没が遅いというのも、計画が押してしまうことに躊躇を抱かせないには十分足りた。そして単独行であるからこそできた所業である。足も腹も首も視線も、ガスの中に隠蔽された天狗を向いていた。撤退の二文字すら頭に浮かばなかった。

多分この体験記をそっくりそのままヤマレコとかに投稿しようものなら、間違いなく叩かれる。こんな山行は登山の常識・流儀を逸脱していて危険極まりない、他の登山者が真似したら危ない。登山者として間違っている。そんなこと、天狗に向かう途中も分かっていた。この状況で天狗に行くのはあり得ない、というのは分かっていた。だがそれでも、体は東へ東へ、弥山から離れていく。

 

今こうして冷静になってパソコンで打ちながらあの頃を回想するにつけ、あの時私を天狗に突き動かしていたのは何か、と自問自答する。承認欲求が主因なのは間違いない。では誰に対するものか。当然、ワンゲルの部員に対して、という部分は無視できない。16人いる同期の中でも下から数えたほうが早いほど体力がなかったという劣等感から、抜き出たいという思いが生じるのは自然だろう。あるいは、かなり世話をかけた先輩に対し、俺ここまで行けるんですよ、的な誇示をしてみたかったといえば、そうかもしれない。

だが一番はやはり、地元のある知り合いに対してであろう。その人は友達の友達という関係ではあるものの、はて、友達と呼んで良いのだろうかと頭をひねるくらい、薄い関係で、当然お互いお互いのことをそんなには知らない。しかしいつしか、そういう関係を変えたいという思いが湧いて出た。それは遅すぎたことかもしれないが、それでもいいと思った。だから、目に見えるような事業をしてみたかった。その人は気づいていないし私のことなど気にかけてすらいないかもしれないが、それでもその人の目を引くような大事業をしてみたかった。だから、天狗には行きたかった。

結局のところ、こういう恋煩いがなければ、こんなことをしてはいなかっただろう。冬山にすら行ってないかもしれない。つまるところ、自惚れと虚栄心だけが私を突き動かしていたと言って間違いなかろう。もっともこれは、全登山者に当てはまりそうなことではあるけれど。ヤマヤというのは、自分でも少し難しいと思う山に登り登頂することで、己に自信を持ち、そこに己の価値と生きる意味を見出す人種のことを言うのだろう。そういう意味では、この一連の冬山旅というのは、先輩に引導してもらうだけの一介のワンゲル部員からヤマヤに移行していった期間に相当していたと思う。

 

 

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帰り際に撮った北壁。そりゃ、北壁側は歩きたくない。


 

にしても、天狗への稜線は、恐怖感がこれまでとはけた違いである。そもそも山と高原地図ですら破線扱いな時点で察しなのだが、ただの岩の道だ。部分的には鎖があったが、全区間ではないし、雪に埋もれている箇所も散見された。そして岩にも積雪があったり、厄介なのは岩の凹凸部分が氷化していて、足場にもならないし手で掴むこともできない。そのため、迂回する必要も出てくる。そのうえ、登山道それ自体がナイフリッジの上を通っているため、両側がとんでもない崖になっている。当然遮るものはないから、容赦なく横風が襲ってくる。幸い降雪はないが、それでも風がいつもより強く感じた。ガスのせいで崖の最下部が全く見通せないし、落ちたら即死であろうと思った。濃い霧が、あちらの世界への入口に思われてならなかった。救助を呼べてもこのガスでは誰も助けには来てくれないに違いない。いずれにせよ、やらかしたらそれで全てが終わると思った。

 ザックは勿論のこと、ピッケルも弥山にデポしたのは正解だった。案の定積雪もないし、手で確保を取った方が安全だった。ただ、やはり氷の付いた岩場に足をかける度胸はなく、迂回をかまさざるを得ない。アイゼン歩行の技術もまだまだである。断崖絶壁の北壁はそういう悪路気味なきらいがあった。そうすると、だんだん南壁に近づくのだけれども、南面は南壁で岩の下の方に積雪があって、それがどうも雪庇くさい。どっちに行こうが、地獄は地獄だった。

 それでも、北壁側の岩の方が掴みやすかった。だから原則として北壁を伝うことにした。雪庇を踏み抜いて滑落という死に方が間抜けに思われたのもあった。もう弥山から10分ほど経っていただろうか。前方の霧の中からわずかに尖った岩の塊が見えたような気がした。あれがそれか?、と少し興奮した時だった。北面を伝っていた登山道は南壁の方に下っているように見えた。足場を目視で見つけようとしても、北壁を通れる自信がない。これは南壁に下るしかなかった。

 だが。南壁に行っても使えそうな岩場はなかなか見つけられない。一丁前に岩場岩場と連呼しているが、所詮は本格的登山を始めて一年足らず。穂高とかいろんな経験は積ましてもらったが、クライミング技術としては素人の平均以上くらいの程度でしかない。当然やれるルートには限界があるわけで、安全だと思えるルートを探すしかない。

 

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左手が北壁、右手が南壁。天狗への稜線は、基本的に南壁の方に傾いている。そして、このあたりから下方に下っていったように思う。



 だがここで、へまをやった。南壁の下方に下ったのは良いが、どうも適切な足場が見つけられず上方に戻ろうとした。ところが、思った以上に使える足場が高くて、足が届きそうにない。もともと体が硬い人間だし、足を届かせようとして無理やり開脚して足を痛めたら帰れないし、バランスを崩して転倒・滑落という最悪なコンボが容易に想像された。ここはこの足場を使わないで上方に復帰するしかないと思った。だが、弥山(西)方向には険しい岩で復帰できそうもない。とすると天狗岳(東)方向で探すしかなかった。すると、今いる地点からちょっと東方向の下方に移動するとその先に無雪期の登山道らしき目印が見えた。これは、今の地点から少し下方に下りてそれからその登山道らしきを辿れば、上方に復帰できるかもしれない。だから下方に下りればいい。

 問題は下るべき下方部分に雪が積もっていたことだった。地形からして、どうも雪庇くさいように思われた。正直、あとになって冷静になって考えると、それが雪庇である根拠は特になく、思い込みによる部分は大きかったと思う。それでもその積雪の先には南壁の絶壁が見えていて、着地をミスったら死ぬのは間違いない。

 一旦冷静になることにした。ここを下りきれたら、多分天狗に行けるし、弥山に帰れる道を見つけられるかもしれない。逆に、この雪面が雪庇だったりあるいは滑落すれば間違いなく死ぬ。生物的にも。社会的にも。かと言って、ここで撤退するにしても、何らかのルートを見つけないと弥山にすら帰れない。ここで動かないという選択肢は存在しないのだ…

ここまで考えた末、この雪面に足をかけることに決めた。と言っても、雪面までまあまあ高さがあるので慎重に下りていく。まず、右足と両手でしっかり岩場に三点支持を保った状態で、そろりと左足を岩から離し、下方に動かす。今度は逆に、左足を固定して右足を下方に動かす。こうして両足が雪面に近づいたところで、両手で岩場を掴みながら、静かに左足を雪面に着ける。

 

果たして、雪面は左足が乗ったというのに、びくりともしない。重心をかけているにもかかわらずだ。よっしゃ!、と叫んだ。雪庇じゃない。これはれっきとした積雪だ!賭けに勝ったようだ。なんとなく、ここで死ぬ気がしなかった。ここを乗り越えることが出来たのだから、どうにかなるだろう。しばらくして上方に戻ると、北壁沿いを通ってもいけそうな気がした。さっきはビビって見つけられなかったが、通れないことはないようだ。帰りはこちら側を通ろう。

 

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天狗岳山頂

上方に戻って間もなく、小さな石造の灯篭があった。下には銀色の金属板に、天狗岳 1982m の文字。ついに、西日本で一番天に近いところにたどり着いた。時間は14時25分になっていた。弥山から30分近く経っていた。そんな時間の経過など、とうに頭から離れていた。相変わらずひどいガスで、奥深い四国の山並みを見下ろすことは叶わなかった。しかし、自力でここまでたどり着けたのは嬉しかった。山頂は想像以上に狭くて最小限の看板しかなく、その素朴さが良かった。何も見えない景色を見ながら、これまでの色んな出来事を軽く思い出しては苦笑する。長かったが、全ては今この時を味わうためにあったのだ。冬山に行くと決めて二カ月弱。形としてはかなり無茶苦茶だが、初志貫徹はすることが出来た。いま私は、西国でもっとも天に近い場所に立っているのだ。

 

 

達成感もひとしおだけれど、山頂にそう長居するものでもない。さあ、あとは帰るだけだ。下山時に事故は起こりやすいというから、怖いは怖い。しかし、弥山に帰れば、あとは大丈夫だと思った。弥山までが大一番であろう。帰るぞと、意気込み、到着後わずか二分で、天狗岳を後にした。

 先ほどの分岐地点に戻った。南壁沿いの下方ではなく、例の北壁沿いを慎重に通過する。鎖がない分一歩一歩に時間がかかる。思えば、大キレットの時、怖いは怖かったが、天気は晴朗で鎖も十分だったから、不思議と恐怖感はなかった。今回は状況がその逆だった。天気は最悪で鎖もない。景色の見え方は向こうが格段に良かったが、落ちたら死ぬのはどっちも同じだった。だとすれば、天狗岳稜線の方が大キレットより怖い。むしろ、この稜線を越えるために大キレットに行ったのではないかとさえ思われた。大キレットが石鎚の踏み台だったのかと思うと、贅沢なものだと苦笑する。それでも、大キレットを越えたからには、やれそうな気がした。あの時は渋滞気味で無理して飛ばした気もするけど、どうせ今はここには誰もいない。なら、時間をかけてでも慎重に進んだ方がいい。飛ばしても大キレットを無傷で通過できたのだから、慎重にやれば絶対大丈夫だと思った。とにかく、しっかりした足場や手の置き場を見極めながら、じっくり時間をかけて西へ西へと戻った。

 

 

14時50分。やっと弥山に着いた。一息ついた。試しの鎖の頂上で飲み残していたコーラを口に入れた。少量だったので炭酸は既に抜けていて、かったるいカラメル風味だけが口に残った。それすらもうまかった。相変わらず景色なんてものはないけれど、霧を見つめながらやり切ったという思いで満たされた。これで帰れる。思い残すことは何もない。やれる範囲でやり切った。計画が押しすぎていて、連絡係を頼んでいた先輩には怒られるだろうけど、それでも良かった。己の限界ギリギリまでやれるというのは、そう経験できるものでもなかろう。そして多分その知り合いにも会える。無事下山しきって、横浜に帰って、しばらくすれば成人式で地元に帰る。その時に顔を合わせることが出来るだろう。そん時はそん時である。

 

一通り写真を撮ったりして、弥山との別れを惜しむ。15時になろうとしていたころ、弥山を後にした。取り敢えず、早く下山しなければ、と思った。地元の場合、冬至では17時半には暗くなり始めていたはずだ。緯度的には本州では三原あたりだから、日没は五時くらいと推定されよう。正直八丁鞍部にさえつけば暗くてもどうにかなる自信はあった。ヘッドライトもあるし、歩いた感じ地形的にもそんなに大変ではない。取り敢えず、八丁鞍部17時を目安に歩き始めた。

例の鉄階段ゾーンに入った。ここでは、下りは崖側の階段を下ることになっているが、どうせ時間も時間だし、山の斜面側を利用した。ここで、岡大山岳部が言っていたアイゼン脱げますよ、の本当の意味を知ることになる。登りの時とは比べ物にならないほど、アイゼンが金網に食いついて、脱げる。20歩歩けた試しがないように思う。それくらいの頻度で脱げる。特段締め方が悪いわけではないし、その理由は判然としない。ともあれ、10回は履きなおした気がする。

そんなこんなで思った以上に時間がかかり、土小屋分岐付近へは40分もかかっていた。とりあえずこの段階で、先輩と宿の白石旅館に現在地点と予定到着時刻を電話しておいた。その後も軽快に歩く。夜明峠に戻ると、そういえば足を痛めたなあと思い出す。改めて振り返って弥山の方をみると、相変わらずひどいガスだったが、すこし晴れた気がした。北西方向の山なみには雲海が出来ていて、ただただ見入ってしまった。山と山の間に本当に湖が出来たように見えて、なんだか神秘的だった。

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雲海はこの辺で見つけたはずだが…やはり、写真にするとなんかへぼい。

夜明峠を過ぎて小股気味で歩くよう意識していると、試しの鎖の入り口の分岐が見えた。当然スルーして巻き道へ。狭くアップダウンはあったものの、通れば5分足らずで鎖場のところを通過していた。登りでもせいぜい10分だろう。1時間もかかったなんて大分苦労したんだな、と思った。

あとはひたすら樹林帯である。さっきの雲海みたいな景色もなく、黒い木陰で気分も上がらないので、心を無にして歩く。気づけば八丁鞍部だった。時間は16時57分とかで、まあ想定通りに行っていた。ここからはアイゼンを脱ぎ、ひたすら早歩きになった。融雪も大分進んでいて、歩きにくい。それでも、雪がないし木道部分は歩きやすかった。

そろそろ夕陽の残光も消えてしまいそうになっていた17時19分。やっと成就社から弥山に向かう時にくぐった門が見えた。やっと帰れた。一安心した。成就社で再度お参りをしたのち、今日の宿・白石旅館に入った。

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奥に常住屋白石旅館

 

思えば、自分の金で旅館に泊まるのは今回が初めてだ。体裁というのがよく分からない。取り敢えず、登山靴・ゲイタ―・アイゼンに付いた泥を軽く落としたのち、案内してもらった。旅館とは言うものの、当然実質は山小屋みたいなものであった。それでも、客が少なかったのか、少し広めの部屋に案内された。和室だったけど、布団の数からして10人くらいはゆうに寝れそうだった。風呂やトイレが共用だったのは仕方あるまい。腹は減ったが、電話するとき、念のため遅めの時間を言っていたため、料理はまだ用意できていない、と。そこで先に風呂に入っておくことにした。

思った通り、かけ流しとかいうことはなかった。ただ家庭用の浴槽のデカい版があっただけだった。どうやら、熱い湯と冷たい湯を交互に入れながら適温を作る仕組みになっていた。正直、リフォーム前の爺さん婆さん宅の風呂よりぼろかったが、これはこれで味があった。登山後の風呂というのは、今回はわざわざ四国まで行くという長旅の疲れもあってか、最高なものである。どばーんと浴槽に体を預け、ふうっ、と息をつく。これだけでも生きてる価値があるわ。派手な設備はないけれど、登山後の疲れを癒してくれるには十分だった。

風呂から上がると、料理が用意されていた。これだけでも、なんだか嬉しい。ブロガー的には、料理の写真一枚くらい撮っておくのが筋だろうが、食に飢えていた私は速攻で手を付けた。常住屋白石旅館のHPを訪ねれば分かるが、多分幻の岩茸付き定食だったと思う。もっとも、当の私はというと、本当は肉をいっぱい食いたいんじゃー!とか全く情趣を解さないことを考えていた。なんか精進料理みたいで正直物足りなさを感じていた。それでも、しっかり味わって食べると、なんというか滋味深い味わいで、たまにはこういう贅沢もアリだと思った。

と、言いつつも、この旅館の良かった点は、ご飯がおかわし放題だった点だ。漬物・ふりかけも充実していた。それはもう、20歳男子大学生、育ち盛り(?)、狂喜乱舞である。まあ、食品ロスになるか私の胃袋に入るかだけの違いである。遠慮なくご飯&漬物で腹を満たしていた。そのおかげで、上述の“精進料理”をゆっくり味わって楽しむことが出来た。

そんなこんなで食いまくっていたら、中年女性と6歳くらいの男の子が食事室に入ってきた。親子連れであろう。そいいえば、ロープウェイに乗った時、近くのスキー場がスキー開きとかでなんかイベントをやっていたのを思い出した。財布には、ロープウェイの山頂駅で貰った抽選権が入ったままだった。すると、女性の方が、

「あの、ここ失礼して大丈夫ですか?」 と聞いてきた。

「どうぞ、今日はスキー開きに行かれたんですか?」

「ええ、あなたは?もしかして山ですか?」

「はい、弥山の方まで。天狗岳にも行きましてね」

「すごいですね、まして一人で行くなんて。私にはできませんわ」

 

こんな感じで話が弾んだ。二人は私の向かい側に座っている。大学のワンゲル部員であることや、地元が福岡であることを話すと、彼女も福岡市内の女子高出身であることが分かり、さらに地元トークで話に花が咲いた。現在、松山で仕事をしているようで、四国に来てお子さんを授かったらしい。細かい事情を突っ込んでも仕方ないので、しばらくヤマの話、福岡の話とかで盛り上がった。

来年小学生になるという息子さんは、ひたすらテレビにかじりついて離れない。案の定お残しをしていて、お母さんに怒られている。そんな姿を見ていては昔の私を見るようで、微笑ましかった。それでも、いい感じのママさんと息子さんだなあと見ていて思った。ビールを飲みたいな、とは思っていたが、さすがに頼むをやめた。

 

 しばらく楽しく歓談したのち、彼らと別れた。しゃべっている間はペースダウンさせていたが、彼らが去ると最後の仕上げに一杯、柴漬けとともに頂いた。お椀が小さかったにせよ、結局、8杯は食っただろう。ごちそうさまを言い、部屋に戻って装備の点検、日記の執筆を行っていたが、さすがに疲労が蓄積していたのだろう、すぐに寝てしまった。

 

 

目が覚めてNHKニュースをつけると、7時40分になっていた。伊予西条行の始発バスにのるには、8時40分のロープウェイに乗らねばならないから、ヤバい。速攻で食事室に向かうと、昨晩のお母さんが「遅かったですね」と微笑して出ていった。取り敢えず、飯だけはそこまで急がずに食い、その後身支度をさっさと済まして、8時15分、旅館を出た。もう少しゆとりを持って出たかったなあと、反省。旅館からロープウェイ乗り場まで徒歩30分程度かかるため、可能な限り走った。こんなところで滑落したら本当に笑い者だと呆れつつ。それでも、何とか間に合った。

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ロープウェイからの車窓。今回は天気運には完全に見放されました…()

乗客は、我々3人だけだった。相変わらず、ガスは酷い。今日山に行ったって、昨日とは何も変わらないだろう。むしろ、悪化している。それがせめてもの慰めだった。お子さんは、雲の上だ!雲の上に立ってる!とはしゃいでいた。それが無邪気で可愛かった。いつしか、遠く下方にあったはずの雲海の中を通り抜け、山麓の寂れた集落が見えた。私は、下界に帰ってきたのだった。